ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチ

Василий Дмитрьевич

モスクワ大公 великий князь Московский (1389-1425)

生:1371.12.30
没:1425.02.07/27 (享年53)

父:モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイモスクワ公イヴァン2世赤公
母:エヴドキーヤスーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ

結婚:1391
  & ソフィヤ公女 1371-1453 (リトアニア大公ヴィタウタス

子:

生没年
ソフィヤ・ヴィトフトヴナと
1アンナ1393-1415皇帝イオアンネス8世
2ユーリイ1395-1400
3イヴァン1396-1417
4ダニイール1400-01
5アナスタシーヤ-1470キエフ公オレリコ
6ヴァシリーサスーズダリ公アレクサンドル・イヴァーノヴィチ
スーズダリ公アレクサンドル・ダニイーロヴィチ
7マリーヤユーリイ・パトリケーエヴィチ
8ヴァシーリイ1415-62モスクワ

第16世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ドミートリイ・ドンスコーイの次男。とはいえ長男ダニイールは1379年に死んでいるので、事実上の長男である。

 1383年、父によりサライに派遣される。
 1380年のクリコーヴォの戦いで父はキプチャク・ハーン軍を破り、その後ママイを追ってハーンとなったトクタミシュが、まさに1382年に報復でモスクワを襲撃している。これに乗じてトヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチが、ドミートリイ・ドンスコーイからヴラディーミル大公位を取り上げて自分に与えるよう、トクタミシュに請願に赴いたのだった。
 ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはミハイール・アレクサンドロヴィチと争って、何とか父の大公位を維持することに成功した。
 しかしその後約2年間、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはトクタミシュにより人質としてサライにとどめ置かれる。ちなみにこの当時、同じくサライで虜囚生活を送っていたのがスーズダリ公ヴァシーリイ・キルデャーパである(ちなみにどちらもヴァシーリイ・ドミートリエヴィチ)。
 1385年になって逃げ出し、モルドヴァ公ペトルのもとに。
 当時キエフ府主教キプリアーンは、父ドミートリイ・ドンスコーイによりモスクワを追われ、南ルーシをうろついていた。当時はガーリチ=ヴォルィニにも独自の府主教が立てられたり、リトアニア大公がリトアニア領ルーシ(ガーリチ=ヴォルィニも含む)の正教会をキエフ府主教(事実上のモスクワ府主教)の管轄から分離させようとしていたり、そもそもキプリアーンの府主教としての権威自体がドミートリイ・ドンスコーイの勢力圏では認められていなかったりと、旧ルーシの正教会では混乱が続いていた。ドミートリイ・ドンスコーイに棄てられたキプリアーンは、かれと並ぶ旧ルーシの実力者であるリトアニア大公ヨガイラの力で旧ルーシ正教会の再統一を図ろうと、これに接近していた。
 モルドヴァがハンガリーに対抗するためポーランドに接近していたこともあり(ポーランド王はヨガイラ)、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはキプリアーンに伴われ、1386年にはリトアニアへ。ここで将来の妃ソフィヤと出会い、キプリアーンの仲介で結婚の約束をしたとされる(父の許可は要らなかったのだろうか?)。1387年、モスクワに帰還。

 1389年、父の死でモスクワ公に。さらにヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはサライに使節を派遣し、トクタミシュから認可状をもらって、トクタミシュの使節の手でヴラディーミル大公として即位した。
 祖父が死んだ時にはスーズダリ公がサライに赴いてハーンから認可状をもらい、以後父と激しくヴラディーミル大公位を巡って争っているが、この時にはニジェゴロド=スーズダリ大公ヴァシーリイ・キルデャーパトヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチも、特にそのような行動はとっていないようだ。ゴロデーツ公ボリース・コンスタンティーノヴィチがすぐさまサライに赴いているが、これはヴラディーミル大公位ではなくニージュニイ・ノーヴゴロドを求めてのことである。
 北東ルーシの宗主としてのモスクワ公の権威を諸公がすでに認めていたと言っていいだろう。
 ただ、これまではヴラディーミル大公位の認可状を求めてルーシ諸公自身がサライに伺候していたのに対して、今回は使節を派遣して済ませている点が大きな違いであろうか。

 父の遺領はドミートリエヴィチ兄弟によって分割され、ユーリイがズヴェニーゴロドとガーリチ=メールスキイ、アンドレイがモジャイスクとヴェレヤー、ピョートルがドミートロフとウーグリチを獲得した(末弟コンスタンティーンは生後3日であり、この時点では分領をもらっていない)。
 ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはモスクワに加え、ヴラディーミル、コロームナ、コストロマー、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ等を譲り受け、その分領は弟たちの分領すべてを合わせたよりも大きかった。イヴァン・カリターの3人の息子、イヴァン赤公のふたりの息子がいずれもほぼ均等に遺領を分割した(らしい)のに比べると、今回の分割は長男ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチに極端に偏っている。中央集権的な傾向が色濃く出た分割だと言えるだろう。この中央集権的傾向は、リトアニアの脅威が拡大するヴァシーリイ・ドミートリエヴィチの治世にさらに強くなり、その死後の内乱の一要因になったと言える。

 父が死んだ時点で、モスクワ系リューリコヴィチには、ヴァシーリイ兄弟のほかに父の下でその名を轟かせたセールプホフ公ヴラディーミル勇敢公がいた。ヴラディーミル勇敢公はヴァシーリイ・ドミートリエヴィチより18歳年長で、これまでのルーシにおける慣習からすると、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチではなくヴラディーミル勇敢公モスクワ大公位を継いでもおかしくなかった。この時ヴラディーミル勇敢公は具体的に継承権を主張しはしなかったようだが、しかしヴァシーリイ・ドミートリエヴィチの側としては警戒せざるを得ない。
 このため、一時期両者の関係は緊張したものとなり、ヴラディーミル勇敢公は自身の分領セールプホフに引っ込み、さらにはトルジョークに逃亡したりもしている。
 しかし1390年には和解し、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはヴラディーミル勇敢公にヴォロクとルジェーフを与えた。

 1390年、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはキプリアーンをモスクワに招聘。これによりキプリアーンは8年間の亡命生活を終え、名実ともにモスクワ府主教に返り咲いた。
 ちなみにキプリアーンは、その後は特に政治の表舞台に出ることはなかったようだが(それでもボヤーリンたちとともに大きな影響力を持ったらしい)、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチとヴィタウタスの娘との結婚を予定通り執り行わせるなど、モスクワとリトアニアとの関係では一定の役割を果たしたものと思われる。モスクワとリトアニアの関係が武力衝突にまでいたるのが、キプリアーンの死んだ1406年以降というのも、そのことを物語っているように思われる。

 北東ルーシ諸公がモスクワ公の優位を認めている中にあって、ノーヴゴロドは依然として独立的な立場を堅持しており、ドミートリイ・ドンスコーイの死にあわせて、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチではなくリトアニア大公ヨガイラの弟レングヴェニスを公として招いた。
 リトアニア大公ヨガイラ/ポーランド王ヴワディスワフ2世は一族内に紛争を抱えており、最大のライバルである従兄弟のヴィタウタスとは、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはすでに友好関係を結んでおり、1391年には約束通りにその娘ソフィヤ・ヴィトフトヴナと結婚した。
 1392年、圧力をかけてレングヴェニスをノーヴゴロドから追う。
 ところがこの年、ヴィタウタスヨガイラと講和。ヨガイラがポーランド王として西方に専念する一方、ヴィタウタスがその «摂政» としてリトアニアの実権を握った。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはその後しばらくヴィタウタスのやることに口を出さなかったが、その積極的な東方拡張政策に、徐々に岳父との関係も緊張していった。

 1392年、サライに伺候。トクタミシュに、ニージュニイ・ノーヴゴロド、ムーロム、メシチェラー、トルーサの領有を認める認可状を要求する。いずれも歴代モスクワ公がかつて一度も領有したこともなければ、現在も他人の領土である。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチのこの法外な要求を、ティムールの脅威にさらされていたトクタミシュは(多額の賄賂ももらって)そのまま呑んだ。
 ムーロム公領では、すでに過去150年間にわたり公の存在が確認されていない(40年前に例外的に公の名前が確認されるが)。本来その分領公であったリャザニ大公モスクワ大公に従属しており、ムーロム公領の併合は何の問題も呼ばなかったようだ。
 メシチェラー人はウラル系民族である。同系(?)のメーリャ人やムロマー人が9世紀から知られているのに対して(メーリャ人はリューリクを招いた部族連合にも加わっていたが、基本的には北東ルーシの先住民。ムロマー人はムーロム公領の先住民)、メシチェラー人は13世紀に文献に初登場。よくわからないが、メーリャ人やムロマー人の大部分がルーシ人に同化した後に残った非同化成分がメシチェラー人だったのかもしれない。その居住地は現モスクワ州、ヴラディーミル州、リャザニ州にまたがるオカー河とクリャージマ河にはさまれた地域で、メシチョールスカヤ低地と呼ばれている。ここでヴァシーリイ・ドミートリエヴィチが併合したのはこの地域だろう。メシチェラー人の首長の末裔がメシチョールスキイ公家としてロシア貴族となっている。ちなみに他の同系民族が、さらに東方に住むモルドヴァー人(かれらだけが同化を免れて現存している)。
 トルーサ公領は上流諸公領のひとつで、モスクワに最も近かった(セールプホフのすぐ南)。すでにその南西のカルーガもモスクワ大公領となっていたので、トルーサの併合は時間の問題だったろう。おそらくトルーサ系と思われるアンドレイ・シュティーハメゼツク公として言及されているので、おそらくかれかその父の代にトルーサを奪われたということだろう。いずれにせよ、おそらくはムーロムと違って無主ではなくちゃんと主のいる土地だったはずだ(クリコーヴォの戦いにもトルーサ公が従軍している)。
 以上3つの地域の併合には、大きな問題はなかったようだ。他方ニージュニイ・ノーヴゴロド公領(ニージュニイ・ノーヴゴロド、スーズダリ、ゴロデーツ)の併合には、ここにれっきとした公がいただけに抵抗があった。しかしスーズダリ系では、ゴロデーツ公ボリース・コンスタンティーノヴィチスーズダリ公ヴァシーリイ・キルデャーパとがニージュニイ・ノーヴゴロド公位を巡って争っており、ドミートリイ・ドンスコーイの介入でヴァシーリイ・キルデャーパがニージュニイ・ノーヴゴロドを確保したばかりだった。ドミートリイ・ドンスコーイの死で、ボリース・コンスタンティーノヴィチがサライに赴き、ハーンからニージュニイ・ノーヴゴロド公位の認可状を得て、再び両者の争いが勃発していた。
 1393年、サライからの帰途、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻。ボリース・コンスタンティーノヴィチを捕らえ、ニージュニイ・ノーヴゴロドとゴロデーツを没収した。この時はヴァシーリイ・キルデャーパにスーズダリだけは残してやったようだが、翌1394年にはこれも併合。ニジェゴロド=スーズダリ大公の名乗りは認めたものの、領土としてはスーズダリ公領のはずれに位置するシューヤの領有だけしか認めなかった(以後その子孫はシュイスキイ公家となる)。

«上流諸公領» とは、オカー河・ドン河上流域にあった諸公領。セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの北部で、モンゴル襲来後に荒廃した南部から逃れてきたチェルニーゴフ系オーリゴヴィチが建てた。ベリョーフ、オドーエフ、ヴォロトィンスク、ペレムィシュリ、モサーリスク、ズヴェニーゴロド、トルーサ、メゼツク、オボレーンスクなど、領土は狭小で、南のキプチャク・ハーン、北のモスクワ、東のリャザニ、西のリトアニアに圧迫されていた。

 1395年、ヴィタウタスがスモレンスクを併合。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは積極的に介入していない。それどころか、翌1396年には府主教キプリアーンとともにスモレンスクに赴き、ヴィタウタスと会談している。ひとつには、東方から新たな脅威が迫りつつあったためだろう。

 1395年、ティムールがサライを攻略。サライは陥落し、トクタミシュは逃亡。ティムールはさらにヴォルガ中流域に侵攻し、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは、ヴラディーミル勇敢公にモスクワの護りを委ねて、自ら軍を率いてコロームナに出陣した。しかしティムールは南下し、モスクワへの脅威は去った。
 キプチャク・ハーン国では、没落したトクタミシュに代わってティムール=クトルグがハーンに擁立されたが、実権はエディゲイが握った。その後トクタミシュは逆にティムールと結び、ハーン位奪回を目指してエディゲイと対立。こうして、ティムールに壊滅的な打撃を受けた上に、内紛によって弱体化したキプチャク・ハーン国の存在を、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは以後無視。貢納も一切おこなっていない。

 ティムールの脅威が去るや、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはノーヴゴロドとの対立を深める。1397年、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはロストーフ公フョードル・アレクサンドロヴィチを、北ドヴィナー右岸(現アルハンゲリスク州東半から東)に広がるノーヴゴロド属領に、代官として派遣。これを従属させる。これに対してノーヴゴロドは1398年にベロオーゼロを焼き打ち。さらにフョードル・アレクサンドロヴィチを屈服させた。

 キプチャク・ハーン国の弱体化に積極的に付け込んだのは、ヴィタウタスだった。エディゲイに敗北したトクタミシュが1398年、ヴィタウタスのもとに逃亡し、ルーシに対する宗主権を譲渡する代わりにハーン位奪回の支援を要請。ヴィタウタスは、一族のポーロツク公アンドレイ & ブリャンスク公ドミートリイのオリゲルドヴィチ兄弟、ドミートリイ・ボブロク=ヴォルィンスキイ(?)、イヴァン・ボリーソヴィチ・キエフスキイ、前スモレンスク大公グレーブ・スヴャトスラーヴィチ(スモレンスクを失いリトアニア貴族化していた)に加え、トクタミシュ、モルドヴァ公シュテファン1世、さらにはドイツ騎士団も招集してキエフから東進。
 ティムール=クトルグは講和を要請するものの、エディゲイの援軍が到着し、両軍はドニェプル支流のヴォールスクラ河畔(310年後にこれまた画期的な戦闘のおこなわれるポルターヴァの近郊)で激突。数と装備で勝るリトアニア軍は、タタール軍に大敗を喫した。タタール軍はキエフ、さらにはヴォルィニにまで敗走するリトアニア軍を追撃。
 この戦いで壊滅しかけていたキプチャク・ハーンの威信は回復されたが、他方リトアニアのルースカヤ・ゼムリャー(現ウクライナ)における勢力拡大は頓挫し(実際これ以後リトアニアは黒海沿岸部の領有を諦め、南方よりも東方への進出を優先する)、ヴィタウタスのリトアニア大公位そのものも揺らいだ。
 ヴォールスクラ河畔の戦いでリトアニア離れを始めたのは、ノーヴゴロドとプスコーフだったが、ここではヴァシーリイ・ドミートリエヴィチも必ずしも成功したとは言えない。それどころか、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは反リトアニア政策に転換した(と言われる)ものの、積極的な動きは見せていない。
 1401年、リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチがリトアニアの支配するスモレンスクに軍を派遣し、ユーリイ・スヴャトスラーヴィチスモレンスク大公位に就けた。この時ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは、自領に隣接するスモレンスクの話であるにもかかわらず、自らは軍を動かしていない。

 1402年、リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチが死去。遺児フョードル・オーリゴヴィチ(ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチの妹婿)はサライに赴き、ハーンから認可状をもらった。
 しかしかれが不在の隙に、プロンスク公イヴァン・ヴラディーミロヴィチがペレヤスラーヴリ=リャザンスキイを占領。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはこれに介入し、イヴァン・ヴラディーミロヴィチを追ってペレヤスラーヴリ=リャザンスキイをフョードル・オーリゴヴィチに返してやった。
 フョードル・オーリゴヴィチはヴァシーリイ・ドミートリエヴィチを「兄」と認め、事実上従属。これに対してヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは1403年、フョードル・オーリゴヴィチにトゥーラを与えた。

 ヴォールスクラの敗戦からようやく国内の体勢を立て直したヴィタウタスは、1403年、スモレンスク大公領に侵攻し、ヴャージマ公領を征服。さらにノーヴゴロドをも圧迫する。属領支配を巡ってヴァシーリイ・ドミートリエヴィチと対立していたノーヴゴロドは、ヴィタウタスの脅威の前に、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチと和解。
 1404年、ヴィタウタスはスモレンスクを攻囲。自らモスクワを訪れたスモレンスク大公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチに、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは支援を約束する。しかしユーリイ・スヴャトスラーヴィチが帰還する前にヴィタウタスはスモレンスクを征服した。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはスモレンスク奪回の軍を派遣するようなことはしていない。
 しかし勢いに乗ったヴィタウタスは、さらにスモレンスクの南東に広がる上流諸公領に進出。オカー & ドン上流域は、同時にモスクワのすぐ南に隣接する地域でもあり、アルギルダスがセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを併合した1360年代からリトアニアが進出していたが、その後ドミートリイ・ドンスコーイの勢力拡大にともないかれに従属するなど、リトアニアとモスクワとの係争地となっていた。
 さすがにこれには黙っていられなくなったのか、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは1406年、07年、08年と、3度にわたってヴィタウタスと対立したが、実際には戦火は交えられなかった。結局ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはヴィタウタスと協定を結び、ウグラー河(オカー支流)を国境とすることで合意した。これにより上流諸公領のほとんどをリトアニアの勢力圏として認めた(これをよしとしない上流諸公の中には、分領を棄ててモスクワに移った者もいる)。

 1407年、ノーヴゴロドは再びレングヴェニスを公として招く。

 1408年、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの公シュヴィトリガイラ(文献によってノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公とかブリャンスク公とか呼ばれる)がヴィタウタスと対立しヴァシーリイ・ドミートリエヴィチのもとへ。

 1408年、エディゲイが、リトアニア進軍を装ってモスクワに侵攻。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは家族とともにコストロマーに逃亡。ヴラディーミル勇敢公が、モスクワ防衛の指揮を執る。エディゲイはモスクワを攻略することができず、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ、ロストーフ、ニージュニイ・ノーヴゴロド、ゴロデーツ、セールプホフ等を荒らしまわって去った。
 モスクワ攻略の帰途、エディゲイはプロンスク公イヴァン・ヴラディーミロヴィチを支援してペレヤスラーヴリ=リャザンスキイを占領。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは妹婿支援のためコロームナ & ムーロム軍を派遣するが、イヴァン・ヴラディーミロヴィチに敗北。
 しかしエディゲイが南方ステップに去るとイヴァン・ヴラディーミロヴィチも抵抗し続けることができず、最終的にヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはペレヤスラーヴリ=リャザンスキイを奪還してフョードル・オーリゴヴィチに返してやった。
 ちなみにヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはのちにイヴァン・ヴラディーミロヴィチと和解し、嫡男イヴァンの嫁にその娘を迎えている。

 1411/12年、再びレングヴェニスノーヴゴロド公から追い、末弟コンスタンティーン・ドミートリエヴィチを送り込む。

 1411年、ダニイール & イヴァンのボリーソヴィチ兄弟(ゴロデーツ公ボリース・コンスタンティーノヴィチの遺児)が、タタール軍の支援を得てニージュニイ・ノーヴゴロドを奪還。翌1412年には、キプチャク・ハーンからニージュニイ・ノーヴゴロド公の認可状をもらった。
 これに対してヴァシーリイ・ドミートリエヴィチも同年、18年振りにサライに詣で、17年振りに貢納を収めた。当時サライでは権力闘争が激しく繰り広げられており、おそらくこの直前に政変があったものと思われる(この頃エディゲイが失脚している)。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは新しいハーンから改めてニージュニイ・ノーヴゴロドの認可状をもらった。
 その後もボリーソヴィチ兄弟はニージュニイ・ノーヴゴロドに依って抵抗を続けたが、ついに1414年、ユーリイ・ドミートリエヴィチによりニージュニイ・ノーヴゴロドはモスクワ領に奪い返された。
 なお、ボリーソヴィチ兄弟とは1417年に最終的に和解している(おそらく娘ヴァシリーサの結婚相手はかれらの息子)。

 1417年、嫡男イヴァン・ヴァシーリエヴィチが死去。後に残された息子は末男のヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチだけとなった。
 これまでのルーシの慣習法に従えば、モスクワ大公位継承の優先権は、息子のヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチよりも弟のユーリイ・ドミートリエヴィチに属する。当時の北東ルーシではそろそろ年長者相続から長子相続へと移行しつつあったようにも思われるが、旧来の慣習が完全に失われたわけでもなかった。ましてやヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチはまだ2歳(当時)の幼児である。
 息子へのモスクワ大公位継承を図るヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは、1419年にユーリイ・ドミートリエヴィチに大公位継承権の放棄を要求する。しかしユーリイ・ドミートリエヴィチはこれを拒否。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは息子への権力移譲に不安を抱えたまま晩年を迎えた。

 1423年頃、北東ルーシを疫病(ペスト)の大流行が襲った。疫病の流行はこれまでもモスクワ公家をはじめ北東ルーシ諸公の命を奪ってきたが、今回は3人のトヴェーリ大公ヴラディーミル勇敢公の5人の息子、そしてヴァシーリイ・ドミートリエヴィチが犠牲となった。
 ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは、まだ幼いヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチを府主教フォーティイと妃ソフィヤ・ヴィトフトヴナに託して息を引き取った。

 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。

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最終更新日 07 03 2013

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