ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ソロモーニヤ・ユーリエヴナ・スヴェルチコーヴァ=サブーロヴァ

Соломония Юрьевна Сверчкова-Сабурова

モスクワ大公妃 великая княгиня Московская (1505-25)

生:?
没:1542.12.18−スーズダリ

父:ユーリイ・К・スヴェルチコーフ=サブーロフ
母:?

結婚:1505(1525離婚)
  & ヴァシーリイ3世・イヴァーノヴィチ 1479-1533

子:なし

ヴァシーリイ3世の最初の妻。モスクワ大公の宮廷に仕える宮廷勤務貴族の娘。

 生年は不明だが、早くに母親を亡くし、父方の伯母に育てられたらしい。
 1505年、花嫁コンテストの結果、ヴァシーリイ3世と結婚(ロシアで最初の花嫁コンテスト)。

 その後の20年間の結婚生活で、ソロモーニヤ・ユーリエヴナは、ある意味で最大の任務であったお世継ぎの出産に失敗。ちなみにヴァシーリイ3世は自身に跡継ぎが生まれないため、弟たちに結婚を許さなかった。このため弟たちの中で結婚したのは末弟のアンドレイ・イヴァーノヴィチだけである。

 1525年、不妊を理由にヴァシーリイ3世から離縁される。ソロモーニヤ・ユーリエヴナは修道女とされ、ロジュデーストヴェンスキイ女子修道院に入れられた(修道名ソフィヤ)。のち、スーズダリのポクローフスキイ修道院に移される。
 公によるこのような行為は、ルーシでは先例がなく、多くの反対を招いた。特に府主教ヴァルラアームを筆頭とした教会関係者の反対は強く、そのためヴァルラアームやマクシーム・グレークなどは流刑された(ヴァシーリイ3世は賛成派のダニイールを府主教に据えた)。一般庶民の間でも、この離婚は不評だったらしい。貴族たちは、逆に、大公位の安定的な継承を理由に大多数が賛成した。それでもクールブスキイ公のような反対派も皆無ではなかった。

 エレーナ・グリンスカヤの «摂政» 時代(1530-38)には、スーズダリからカルゴーポリに追放されていたとする史料もある。

 早くもアンドレイ・クールブスキイ公イヴァン雷帝宛ての書簡の中で殉教者視している。その後彼女を聖者と見る風潮は広がっていったが、特にスーズダリではスーズダリの守護聖者として尊崇を集めたらしい。
 ただし、ロシア正教会における «列聖» の仕組みはよくわからないが、ソロモーニヤ・ユーリエヴナはどうやら «地域的な聖者» とされているようだ。

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最終更新日 07 03 2013

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