セミョーン・イヴァーノヴィチ «ゴールドィイ»
Семен Иванович "Гордый"
モスクワ公 князь Московский (1341-53)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1341-53)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1346-53)
生:1316.09.07−モスクワ
没:1353.04.27(享年36)−モスクワ
父:モスクワ公イヴァン1世・カリター (モスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチ)
母:エレーナ
結婚①:1333
& アイグスタ/アナスタシーヤ公女 -1345 (リトアニア大公ゲディミナス)
結婚②:1345 (1346離婚)
& エヴプラクシーヤ公女 (フョードル・スヴャトスラーヴィチ)
結婚③:1347
& マリーヤ公女 -1399 (トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アナスタシーヤ・ゲディミーノヴナと | |||
1 | ヴァシリーサ | カーシン公ミハイール | |
2 | ヴァシーリイ | 1336-37 | |
3 | コンスタンティーン | 1340 | |
マリーヤ・アレクサンドロヴナと | |||
4 | ダニイール | 1347- | |
5 | ミハイール | 1348 | |
6 | イヴァン | 1349-53 | |
7 | セミョーン | 1351-53 |
第14世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名シメオーン(=セミョーン)。イヴァン・カリターの長男。
生年については1317年、1318年としている文献もある。
父は1331年にゴロデーツとニージュニイ・ノーヴゴロドを獲得したとも言われるが、セミョーン・イヴァーノヴィチはその統治を委ねられたとされる。
1340/41年、父が死去。その遺言により、セミョーン・イヴァーノヴィチは遺領のうち26の都市と村落を相続し、モスクワ公となる。次弟イヴァン赤公にはズヴェニーゴロドとルーザを、末弟アンドレイにはセールプホフとボーロフスクを分領として与えた。モスクワ公領はほぼ3分割され、モスクワ市自体が3分割されたが、三兄弟は仲が良かったようで、何ら揉め事も起こることなく、それどころか一致団結してモスクワ系の権勢拡大に努めた。
セミョーン・イヴァーノヴィチはサライに伺候。ヴラディーミル大公位の認可状をもらうためだったが、この時同時に北東ルーシの諸公もまたこぞってサライに伺候した。
父はモスクワ公の勢力を大きく拡大したが、当然それは他の諸公を圧迫する形となり、父の死でかれらの不満は爆発した。ノーヴゴロドはモスクワの宗主権を否認し、サライに伺候した諸公はスーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチを強力に推したらしい。
しかし結局ウズベク・ハーンはセミョーン・イヴァーノヴィチにヴラディーミル大公の認可状を与えた。
セミョーン・イヴァーノヴィチは1342年にもサライに赴き、ウズベク・ハーンの跡を継いだジャーニー・ベクから認可状をもらう。
セミョーン・イヴァーノヴィチはその治世において、さらに何度かサライに詣で、自身の権威を確認してもらっている。
ちょうどセミョーン・イヴァーノヴィチが父を継いだ頃、ユーリエフ=ポリスキイ公イヴァン・ヤロスラーヴィチが死去。セミョーン・イヴァーノヴィチが遺領を買収する。
父の死んだ1341年は、同時にリトアニア大公ゲディミナスの死んだ年でもある。
ゲディミナス死後、リトアニア大公領は、南東トゥーロフ=ピンスクがナリマンタス、東部ポーロツクがアルギルダス、西部ジェマイティヤがケーストゥティス、本土リトアニアがヤウヌティス、南部ヴォルィニがリウバルタスと分割された。しかし権力闘争が勃発し、最終的には1345年にアルギルダスとケーストゥティスがヤウヌティスを追って、ふたりでリトアニアを分割した。
リトアニア騎士団と敵対しノーヴゴロドから独立しようとするプスコーフは依然リトアニアとの協調関係を維持し、アルギルダスの子アンドレイを公として招いたが、しかし全般的にはこの時期リトアニアのルーシへの影響は低下する。これが最も顕著に表れたのがノーヴゴロドであった。
ノーヴゴロドは、セミョーン・イヴァーノヴィチがまだサライに滞在している間にベロオーゼロ地方を攻略。これに対する報復として、セミョーン・イヴァーノヴィチは帰国後トルジョークに代官としてモローガ公ミハイール・ダヴィドヴィチを派遣し、貢納を取り立てている。ベロオーゼロ公領がモスクワの事実上の属領と見られていたということだろう。
ノーヴゴロドはその後もセミョーン・イヴァーノヴィチに敵対するが、1346年には屈服し、かれをノーヴゴロド公として承認した。
ヴラディーミル大公位を巡って、すなわち北東ルーシの覇権を巡って、歴代モスクワ公と激しく対立してきたのがトヴェーリ公であった。すでに他の諸公は父の代にモスクワ公に屈服しており、スモレンスク公もリャザニ公も弱体化していたこの時期、ノーヴゴロドとともにモスクワ公の覇権に挑戦し得るのはトヴェーリ公だけとなっていた。
しかしそのトヴェーリでは、トヴェーリ公コンスタンティーン・ミハイロヴィチと甥のホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチとの関係が悪化。1345年、ついに堪忍袋の緒を切らせたフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチが、セミョーン・イヴァーノヴィチのもとに逃げ込んでくる。
コンスタンティーン・ミハイロヴィチは父の代からモスクワ公に協調的な姿勢を維持しており、セミョーン・イヴァーノヴィチとしても無暗にその不利益を図るはずがなかったが、もう一方の雄リトアニアが内紛状態にあるため、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチとしてもほかに行き場がなかったのだろう。しかしセミョーン・イヴァーノヴィチが恃みにならないと見てとると、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはサライへ。ジャーニー・ベクに泣きついた。
これに対してコンスタンティーン・ミハイロヴィチもサライに赴いたが、当地で客死。ジャーニー・ベクはトヴェーリ公位の認可状をフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチに与えた。
しかしこれにはコンスタンティーン・ミハイロヴィチの弟ヴァシーリイ・ミハイロヴィチが反発。こうしてトヴェーリの内紛は続いた。
セミョーン・イヴァーノヴィチが北東ルーシに覇権を着々と固めていくこの時期にトヴェーリが内紛でこれに対抗する余裕を持たなかったことが、両者の力関係を決定づけることになったと言えるだろう。
1347年、スウェーデン・ノルウェー王マグヌス(スウェーデン王としては2世、ノルウェー王としては7世)がノーヴゴロドとの戦争を開始(スウェーデンとは1323年、ノルウェーとは1326年にマグヌスのもとでノーヴゴロドとの講和が結ばれていた)。
1348年、マグヌスはネヴァ河口部に進軍し、オレホフ要塞を攻囲した。セミョーン・イヴァーノヴィチは弟イヴァン赤公とロストーフ=ボリソグレーブスキイ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチを派遣するが、コポーリエでスウェーデン軍を破るものの、オレホフ要塞は陥落した。ノーヴゴロド軍は逆包囲し、1349年にはオレホフ要塞を奪回する。
この間、1348年にプスコーフがノーヴゴロドと条約を結び、独立を果たした。
トヴェーリの内紛は、セミョーン・イヴァーノヴィチにとっては都合のいい方向に進んでいた。1347年にフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの妹と結婚する一方で、1349年には娘をヴァシーリイ・ミハイロヴィチの息子に与えている。
こうして着々とノーヴゴロドを含む北部ルーシに覇権を確立しつつあるセミョーン・イヴァーノヴィチに挑戦してきたのがリトアニア大公アルギルダスであった。
1345年にケーストゥティスとリトアニアを分割したアルギルダスは、東部を支配して積極的にルーシへの進出を始めた。その標的のひとつがノーヴゴロドとプスコーフで、その覇権を巡ってアルギルダスとセミョーン・イヴァーノヴィチは対立を深めた(もっとも、ノーヴゴロドもプスコーフも、リトアニアにもモスクワにも従属するつもりはなかった)。
1349年、アルギルダスはジャーニー・ベクにセミョーン・イヴァーノヴィチの行状を訴え、共同の軍事行動を提案する。しかしジャーニー・ベクはセミョーン・イヴァーノヴィチを支持し、アルギルダスも1350年にはセミョーン・イヴァーノヴィチとの和解を余儀なくされた。
その1350年、アルギルダスがフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの妹と結婚。対立を利して地歩固めを優先するセミョーン・イヴァーノヴィチ恃むに足らずとして、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチがリトアニアとの同盟に舵を切ったというところか。これに対してはセミョーン・イヴァーノヴィチもヴァシーリイ・ミハイロヴィチ支持に傾く。
こうしてトヴェーリの内紛は、リトアニアとモスクワとの代理戦争の様相も呈してきた。
1350年、マグヌスが再びネヴァ河口部を攻撃。ノーヴゴロドはこの攻撃を撃退したようだが、マグヌスはそのままリヴォニアにとどまり、1351年まではノーヴゴロドへの攻撃を続けた。その後、国内情勢の変化等から、マグヌスのノーヴゴロドへの «十字軍» は下火となる。
アルギルダスのルーシ進出におけるもうひとつの標的がスモレンスクだった。スモレンスク大公イヴァン・アレクサンドロヴィチは1303年にモスクワに併合されていたモジャイスクの奪還を目指しており、ここにイヴァン・アレクサンドロヴィチとアルギルダスとの同盟が成立した。
これに対して1351年、セミョーン・イヴァーノヴィチはスモレンスクに侵攻。恃みのアルギルダスに見棄てられたイヴァン・アレクサンドロヴィチは、セミョーン・イヴァーノヴィチと講和した。
こうしてアルギルダスのルーシ進出は、ノーヴゴロド・プスコーフ、トヴェーリ、スモレンスク各方面でセミョーン・イヴァーノヴィチの激しい抵抗に遭ったが、ちなみに唯一南方、ルースカヤ・ゼムリャーにおいては順調に進み、のちの話になるが1355年から1362年までの間に旧キエフ公領、旧ペレヤスラーヴリ公領、セーヴェルスカヤ・ゼムリャー(上流諸公領を除く)を征服。さらにはスモレンスク公領からもムスティスラーヴリとトローペツを奪い、わずかな期間に版図を約2倍に拡大して、モスクワにとっても大きな脅威になっていく。
1352年頃に北東ルーシでも黒死病(ペスト)の流行が発生。北東ルーシではこの時の流行は西欧ほどの被害をもたらさなかったものの、1353年にセミョーン・イヴァーノヴィチ、ふたりの息子、末弟アンドレイ・イヴァーノヴィチ、府主教フェオグノーストが相次いで命を落としている。
死に臨んで修道士ソゾントになる。死後、クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。
その十年強の治世において、一度も軍事行動を起こしていない(ただし小競り合い程度はあった)。モスクワの歴史にあっては非常に珍しい時期となったが、これはセミョーン・イヴァーノヴィチの個性とはおそらく関係ない。実際、続く弟イヴァン・イヴァーノヴィチの治世にもモスクワがらみの戦争は起こっていない。むしろ理由は、この時期とみに高まったモスクワの権威と、それと反比例する諸公の弱体化とが挙げられるだろう。しかし、そこに乗じて無闇に戦争を起こさなかったのは、セミョーン・イヴァーノヴィチの賢明なところであるとは言えるかもしれない。
父に続いてヴラディーミル大公位を獲得し、それを終生維持し、こうして、領土を拡張しこそしなかったものの、モスクワ公の権威を北東ルーシで確実なものとした。
最初の妻アナスタシーヤは、旧名をアイグスタと言い、リトアニア大公ゲディミナスの娘であったと一般的にされている。しかし必ずしも確かではないらしい。
ふたりめの妻は、結婚後1年で実家に追い返したが、理由は不明。それもあってか、3人めのマリーヤとの結婚に際して、当初府主教フェオグノーストはこれを認めるのを渋ったらしい。
3度の結婚で、合計6人の男子を設けたが、ひとりも生き残らなかった。
セミョーン・イヴァーノヴィチはコンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂の修復費を出している。
添え名の «ゴールドィイ» は「誇り高い、自尊心のある」という意味。それが転じて「尊大な、傲慢な」という否定的な意味にもなるが、通常は肯定的な意味で「堂々とした、立派な」というニュアンス。