ピョートル・ドミートリエヴィチ
Петр Дмитрьевич
ドミートロフ公 князь Дмитровский (1389-1428)
ウーグリチ公 князь Углицкий (1389-1405)
生:1385.07.29
没:1428
父:モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ (モスクワ公イヴァン2世赤公)
母:エヴドキーヤ (スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ)
結婚:1406
& エヴフロシーニヤ -1466 (ポリエーフクト・ヴァシーリエヴィチ・ヴェリヤミノフ)
子:なし
第16世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ドミートリイ・ドンスコーイの四男。
1389年、父の死でドミートロフとウーグリチを分領としてもらう。まだ幼かったからだろうか、長兄ヴァシーリイ1世は別格としても、次兄ユーリイ、すぐ上の兄アンドレイと比べて与えられた都市が少ない。それでも弟コンスタンティーンのように何も与えられなかったわけではないだけマシか。
理由はよくわからないが、1405年、ウーグリチをヴァシーリー1世に没収される。代償として別の都市が与えられた形跡もない。
1406年、リヴォニア騎士団とリトアニア軍がノーヴゴロドとプスコーフに侵攻。ピョートル・ドミートリエヴィチは軍を率いてその防衛に参加した。
1408年、エディゲイがモスクワに侵攻した際には、セールプホフ公ヴラディーミル勇敢公や兄アンドレイ・ドミートリエヴィチとともにモスクワ防衛の指揮を執る。
1417年、長兄ヴァシーリイ1世の息子イヴァン・ヴァシーリエヴィチが死去。長兄に残された息子は、1415年に生まれたばかりのヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチだけとなった。
ヴァシーリイ1世はもとより息子へのモスクワ大公位移譲を望んでいただろうが、元来ルーシでは兄弟相続(正確には年長者相続)が慣習法として確立しており、しかも移譲すべきヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが幼児では、大公位移譲がすんなりと行かないだろうとは容易に想像できる。長兄は次兄ユーリイ・ドミートリエヴィチに大公位継承権の放棄を要求するが、ユーリイ・ドミートリエヴィチはこれを拒否。
このため1425年、長兄はその死に臨んで、妻ソフィヤと幼い息子ヴァシーリイ2世を、アンドレイとピョートルに託した。甥ヴァシーリイ2世と次兄ユーリイ・ドミートリエヴィチの対立においても、誠実に甥を支持したと言われる。