コンスタンティーン・ドミートリエヴィチ
Константин Дмитрьевич
ウーグリチ公 князь Углицкий (-1433)
生:1389.05.14/15/16
没:1433
父:モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ (モスクワ公イヴァン2世赤公)
母:エヴドキーヤ (スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ)
結婚:?
子:?
第16世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ドミートリー・ドンスコーイの五男。
生後数日で父を亡くす(正確な誕生日には異説がいくつかある)。教父には、長兄ヴァシーリイ1世がなった。
父の遺言状には(コンスタンティーン誕生以前に作成された)、もし息子が生まれたなら兄たちが領地を分け与えるよう書かれていたが、最終的にウーグリチに落ち着くまでは具体的にどこが与えられていたのかよくわからない(あるいは全然与えられていなかったのかも)。しかも、いつウーグリチが与えられたのかもはっきりしない。
1406年、リヴォニア騎士団の脅威に直面したプスコーフ市民の要請に応え、ヴァシーリイ1世によりプスコーフに派遣される。リヴォニア騎士団はこの時、思い出したかのようにプスコーフへの侵攻を数度にわたって試みているが、コンスタンティーン・ドミートリエヴィチはいずれも撃退。それも1408年には下火になった。
1408年、ヴァシーリイ1世により代官としてノーヴゴロドに派遣される。
としている文献が多いが、1407年から12年までレングヴェニス(リトアニア大公ヴィタウタスの従兄弟)がノーヴゴロド公だったはず。この頃のノーヴゴロド情勢はよくわからない(モスクワとリトアニアの間で綱引きがあったのは確かだが)。
1412年、プスコーフ市民は公アレクサンドル・シチェパーと対立し、これを追放。コンスタンティーン・ドミートリエヴィチに帰還するよう要請する。このためコンスタンティーン・ドミートリエヴィチは、しばらくノーヴゴロドとプスコーフ双方を統治したらしい。1414年、モスクワに帰還。
なお、プスコーフとノーヴゴロドにおけるコンスタンティーン・ドミートリエヴィチの肩書きは公ではなく代官とする文献がほとんどである。実質に違いはないが。
1417年、長兄ヴァシーリイ1世の息子イヴァン・ヴァシーリエヴィチが死去。長兄に残された息子は、1415年に生まれたばかりのヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチだけとなった。
ヴァシーリイ1世はもとより息子へのモスクワ大公位移譲を望んでいただろうが、元来ルーシでは兄弟相続(正確には年長者相続)が慣習法として確立しており、しかも移譲すべきヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが幼児では、大公位移譲がすんなりと行かないだろうとは容易に想像できる。
このため1419年、ヴァシーリイ1世は弟たちに大公位継承権の放棄を要求するが、次兄ユーリイ・ドミートリエヴィチとコンスタンティーン・ドミートリエヴィチはこれを拒否。1420年、コンスタンティーン・ドミートリエヴィチはノーヴゴロドに逃亡する。怒ったヴァシーリイ1世に分領(どこ?)を没収された。
1421年、コンスタンティーン・ドミートリエヴィチはヴァシーリイ1世と和解しモスクワに帰還した。
ヴァシーリイ1世の死後については、参考にした文献によって言っていることが違う。一方ではヴァシーリイ2世に反抗し、次兄ユーリイ・ドミートリエヴィチの側に立ったとしているのに、他方ではヴァシーリイ2世を支持したとしている。
没年すらはっきりしない(1433年ないし34年)。ただし死の直前に修道士となったらしい(修道名カッシアーン)。