ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イヴァン・アンドレーエヴィチ

Иван Андреевич

モジャイスク公 князь Можайский (1432-54)

生:?
没:?

父:モジャイスク公アンドレイ・ドミートリエヴィチモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ
母:アグリッピナ (スタロドゥーブ公アレクサンドル・ミハイロヴィチ)

結婚:1448
  & ? (ヴォロトィンスク公フョードル・ユーリエヴィチ

子:

生没年
ヴォロトィンスキイ公女と
1アンドレイ-1487ブリャンスク
2セミョーン-1505スタロドゥーブ

第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。

 生年は不明だが、両親の結婚が1403年とされているので、早くても1405年頃、遅くとも1432年まで、というところ。ただし姉妹のアナスタシーヤ・アンドレーエヴナが1399年生まれとされるトヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチの最初の妻であることを考えると、イヴァン・アンドレーエヴィチの方が年少だったとしても1430年頃の生まれということはないのではないか。

 1432年、父が死去。イヴァン・アンドレーエヴィチはモジャイスクを、弟のミハイール・アンドレーエヴィチはベロオーゼロとヴェレヤーを相続した。
 この時、従兄弟のモスクワ大公ヴァシーリイ2世と協定を結び、大公権に敵対する者には共同して当たることを誓った。これは暗に、大公位の獲得を目論んでいた叔父のガーリチ公ユーリイ・ドミートリエヴィチを指している。

 1434年、ヴァシーリイ2世とともにユーリイ・ドミートリエヴィチと戦うが、ロストーフ近郊にて敗北。
 ヴァシーリイ2世はノーヴゴロドへ、イヴァン・アンドレーエヴィチは母を伴ってトヴェーリへ逃亡(あるいは逆に、まだ幼くて母に連れられて逃亡したということかもしれない)。ちなみに時のトヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチは義理の兄。
 ユーリイ・ドミートリエヴィチに召喚されると、イヴァン・アンドレーエヴィチはこれに応じ、叔父に従ってモスクワに入城した。

 やがてユーリイ・ドミートリエヴィチは死去。その子ヴァシーリイ・コソーイが後を継いだが、イヴァン・アンドレーエヴィチはかれを否認し、ヴァシーリイ2世側に。
 1435年、ヴァシーリイ2世とともにヴァシーリイ・コソーイと戦う。

 1445年、ヴァシーリイ2世とともにウル=ムハンマドの子らと戦う。この戦いでルーシ軍は大敗を喫し、イヴァン・アンドレーエヴィチも怪我を負う。一方ヴァシーリイ2世と弟ミハイール・アンドレーエヴィチはタタール軍の捕虜となった。
 この間、ドミートリイ・シェミャーカは大公位奪取の陰謀を巡らし、イヴァン・アンドレーエヴィチもこれに加担した。
 1446年、釈放され、セールギエフ・ポサードの三位一体セールギー修道院を訪れていたヴァシーリイ2世を、イヴァン・アンドレーエヴィチが急襲。モスクワに連行し、その目をつぶした。目をつぶしたのは連行する前だとも言われるが、いずれにせよ実際に目をつぶしたのがイヴァン・アンドレーエヴィチであった点では史書は一致している。
 その功績により、ドミートリイ・シェミャーカからスーズダリをもらう。

 しかしヴァシーリイ2世は盛り返し、イヴァン・アンドレーエヴィチはドミートリイ・シェミャーカとともに迎え撃つが敗北。イヴァン・アンドレーエヴィチはドミートリイ・シェミャーカとともにガーリチに逃亡。ヴァシーリイ2世に屈服し、モジャイスクを除く全分領を失った。

 1447年、一部領土を返還される。

 1449年、再びドミートリイ・シェミャーカと結びコストロマーに立てこもるが、講和。この時はベジェツキイ・ヴェルフをもらう。

 1453年、ドミートリイ・シェミャーカが死去。
 1454年、ヴァシーリイ2世がモジャイスクに侵攻。イヴァン・アンドレーエヴィチは妻子を連れてリトアニアに逃亡。モジャイスクはモスクワに併合される。
 イヴァンはリトアニア大公カジミエラスからブリャンスクを、次いでスタロドゥーブとゴメリをもらう。スタロドゥーブをもらったというのは、かれがスタロドゥーブ公の孫だということが考慮されたためか。

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最終更新日 07 03 2013

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