ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イヴァン3世・ヴァシーリエヴィチ «ヴェリーキイ»

Иван Васильевич "Великий", "Грозный", "Святой"

モスクワ大公 великий князь Московский (1462-1505)
ツァーリ царь всея Руси

生:1440.01.22
没:1505.10.27 (享年65)−モスクワ

父:モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公モスクワ大公ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチ
母:マリーヤマロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

結婚①:1446
  & マリーヤ公女 -1468 (トヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチ

結婚②:1472
  & ゾエ・パライオロギナ/ソフィヤ・パレオローグ -1503 (モレア僭主トマス・パライオロゴス)

子:

生没年
マリーヤ・ボリーソヴナと
1イヴァン1458-90トヴェーリ
ソフィヤ・フォミーニチナと
2エレーナ1474-
3フェオドーシヤ1475/85-1501ホルム公ヴァシーリイ
4エレーナ1476-1513ポーランド王・リトアニア大公アレクサンドラス
5ヴァシーリイ1479-1533モスクワ
6ユーリイ1480-1536ドミートロフ
7ドミートリイ1481-1521ウーグリチ
8イヴァン1485-
9セミョーン1487-1518カルーガ
10アンドレイ1490-1537スターリツァ
11エヴドキーヤ-1513

第18世代。モノマーシチ(モスクワ系)。洗礼名ティモフェイ。ヴァシーリイ2世の次男(ただし長男ユーリーは早世しているので、事実上イヴァンが長男)。

 幼児期、父とその従兄弟ドミートリイ・シェミャーカとの大公位を巡る争いが続く。1446年には父が目をつぶされたため、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは長ずるに及んで父に代わって軍事・政務を執るようになる。
 1452年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは自ら軍を率いる。
 1456年には、政務に参画。父から正式に大公の称号を与えられ、«勅令» のたぐいには父と並んで «大公イヴァン・ヴァシーリエヴィチ» も署名するようになった。
 北東ルーシの最高権力者の称号がヴラディーミル大公であった時代から、キプチャク・ハーンの認可状をもらうことなく、大公が勝手に次期大公を任命するということはなかった(遺言状で指名するということは近年おこなわれていた)。父がこの慣例を破った背景には、タタール勢力がキプチャク・ハーン、カザン・ハーン、クリム・ハーンなどに分裂していたという事情があった。しかもキプチャク・ハーンの息子に領土を与えてモスクワの属国としている(カシーモフ・ハーン国)。キプチャク・ハーンの権威は凋落し、そのため父もハーンとの対決を脅威に感じなかったということだろうか。
 また、あえて生前に息子を大公にしたのは、目をつぶされていたというやむを得ない事情があったにせよ、自身が父の跡を継いでから大公位を確立するまで、数十年に及ぶ内戦をくぐり抜けた記憶から、息子の大公位継承を自分の生きているうちに確実にしておこうという思いも、ヴァシーリイ2世にはあっただろう。

 1462年、父の死で大公位を継ぐ。この時ハーンの許可を求めず。ハーンの権威を無視したわけだが、当時ハーンが3人(ウズベク・カザフも含めれば5人)もいたことも忘れてはならない。誰の許可を得たらいいかわからなかった、ということはないだろうが(それなら3人全員に許可を求めればいい)、タタール勢が分裂して相争っていたからこそ、イヴァン・ヴァシーリエヴィチもハーンの権威を無視することができた、という側面もあっただろう。ただし、貢納は続けている。
 この時点ですでにイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、経験を積んだ政治家であった。

 父の時代に、すでにモスクワ系の分領公は、ヴェレヤーとベロオーゼロを領有するミハイール・アンドレーエヴィチだけとなっていた。しかし父の死で弟たちが、すなわちユーリイがドミートロフ、モジャイスク、セールプホフを、アンドレイ・ゴリャーイがウーグリチ、ズヴェニーゴロド、ベジェツキイ・ヴェルフを、ボリースがヴォロコラムスク、ルジェーフ、ルーザを、アンドレイ・メニショーイがヴォーログダとザオゼーリエをそれぞれ相続し、新たな分領公となった。父の中央集権化政策を継承したイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、やがて弟たちに対する圧迫を強め、対立していくことになる。
 そのほかには、ノーヴゴロド、プスコーフ、トヴェーリ、リャザニ、ロストーフ、ヤロスラーヴリが形式上独立を維持していた。弟や従兄弟の分領と同時に、これらをも併合していくことが、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの目標となる。
 1463年、手始めに、ヤロスラーヴリ公アレクサンドル・ブリュハートィイから、ヤロスラーヴリ公としての権利を買い取り、ヤロスラーヴリ公領を併合。

 続いて、東方の厄介なカザン・ハーン国対策に乗り出す。1467年、カザン・ハーン国に侵攻。おそらくハリールが死んで弟イブラーヒームが跡を継いだ政権交代に乗じたのだろう。実際、この時イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、イブラーヒームの叔父カーシム=トレグブを送り込んでいる。

カーシム=トレグブは、ハリール & イブラーヒーム兄弟の父マフムードに追われて1447年にヴァシーリイ2世に仕えるようになり、1450年にはゴロデーツ=メシチョールスキイを分領としてもらっていた。のちのカシーモフ・ハーン国の初代ハーンである。

 カーシム=トレグブはカザン・ハーン国内にそれなりの同調者を生んだようだが、結果から見ればこれは奏効しなかった。モスクワ軍は敗北を喫し、逆にイブラーヒームにガーリチ=メールスキイを攻略されている。戦線は拡大し、やがて膠着状態に陥った。1469年には講和条約が結ばれているが、これ以降はイブラーヒームはモスクワにちょっかいを出していない(このため、「イブラーヒームがモスクワに屈服した」とする文献もある)。

 1468年、妃マリーヤ・ボリーソヴナが死去。翌1469年、ローマ教皇パウルス2世からイヴァン・ヴァシーリエヴィチに、その庇護下にあったゾエ・パライオロギナとの結婚話が持ち込まれる。話はまとまり、1472年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはゾエと再婚(ソフィヤと改名)。
 パウルス2世側にはルーシをカトリックに改宗させようという意図があったとも言われるが、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはイヴァン・ヴァシーリエヴィチで、ゾエ・パライオロギナ(これ以降はソフィヤ・パレオローグと呼ぼう)が最後のビザンティン皇帝コンスタンティノス12世の姪であったことから、この結婚を自身とモスクワの権威付けに利用した。
 ただし、この結婚を機にイヴァン・ヴァシーリエヴィチがビザンティン皇帝の位牌を継ぐ者としてツァーリを自称し、双頭の鷲をシンボルとして使用し始めた、という説には、異論がある。イヴァン・ヴァシーリエヴィチの印章に双頭の鷲が使われているのは確かだが、そこには「全ルーシの君主にして大公」としか記されていない。たとえイヴァン・ヴァシーリエヴィチがツァーリを自称していたとしても、双頭の鷲とともに、それはビザンティン皇帝だけでなく神聖ローマ皇帝の影響もあるとする説がある。少なくともロシア語で「ツァーリ」という言葉は、ビザンティン皇帝だけでなく神聖ローマ皇帝も、キプチャク・ハーンも、グルジア王も意味する。「モスクワは第3のローマである」という思想も、少なくとも文献上最初に登場するのは息子ヴァシーリイ3世の治世に入ってからである。イヴァン・ヴァシーリエヴィチにとっては、おそらくソフィヤ・パレオローグとの結婚は、その意味では大した重要性を持たず、むしろノーヴゴロドやトヴェーリを併合し、カザン・ハーンを下し、リトアニアからセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを奪って、西方の皇帝に対抗し得る勢力を築いた(と自負した)ことの方が大きかっただろう。
 ソフィヤ・パレオローグとの結婚が最大の影響を及ぼしたのは、おそらく文化面だろう。モスクワ宮廷がこの結婚後にビザンティン風を強めていったのは確からしい(«花嫁コンテスト» は息子の代から始まった)。加えて、彼女に従ってローマからやってきた大勢のイタリア人が、ルネサンスが花開いた西欧文化をモスクワに持ち込んだ。必ずしもそれらがすぐにモスクワに定着したとは言えないが、しかしクレムリン内にあるアルハンゲリスキイ大聖堂、ウスペンスキイ大聖堂、イヴァン大帝の鐘楼、グラノヴィータヤ宮殿などがいずれもこの時期にイタリア人によって建てられている事実は、その影響が決して小さくないことを如実に物語っていると言えよう。

 モスクワからの圧迫に、ノーヴゴロドでは反モスクワ派の勢力が強まっていた。その先頭に立っていたのが、有力貴族ポレツキイ家の当主マルファ・ボレツカヤである。彼女はリトアニアと手を組むことを決断。民会を動かし、1470年、リトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世の一族であるミハイール・オレリコヴィチをノーヴゴロドに招く。さらにカジミエラスと同盟。
 これを聞いたイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、1471年、ノーヴゴロドに侵攻。ミハイール・オレリコヴィチは逃亡し、ノーヴゴロド軍はモスクワ軍に敗北し、リトアニアからは援軍が来ることもなく、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはノーヴゴロドを屈服させた。

 1472年、ペルムスカヤ・ゼムリャー(現ペルミ地方、ウドムルト共和国南部)を併合。

ペルムスカヤ・ゼムリャーとは、大雑把に、カーマ河(ヴォルガ支流)の流域地方。ただしカーマとヴォルガの合流地点にはカザン・ハーン国があったので、その北東部と言うべきであろう。この地域にはウラル系民族コミ人が住んでいた。

 1473年、次弟のドミートロフ公ユーリイ・ヴァシーリエヴィチが死去。中央集権化政策を採るイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、遺領を弟たちと分け合うことなく、すべて大公領に併合した。これにアンドレイ・ゴリャーイボリース・ヴァシーリエヴィチのふたりの弟が反発。以後イヴァン・ヴァシーリエヴィチとふたりの弟との関係は緊張したものとなった(末弟アンドレイ・メニショーイは、最後までイヴァン・ヴァシーリエヴィチに忠実だった)。

 1474年、ロストーフ(=ボリソグレーブスキイ)をヴラディーミル・アンドレーエヴィチから買収。これにより旧ロストーフ公領はすべてモスクワ領となった。

 こうしてモスクワを中心として北東ルーシの領土的統一を大きく推進するとともに、中央官庁の近代化、法典の編纂などを通じた国家機構の近代化と中央集権化にも先鞭をつける。のちにロシアの国家行政を担う «プリカーズ» と呼ばれる中央官庁(当初はプリカーズではなく «イズバー» と呼ばれていた)は、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの時代に成立したと言われる。文献上の初出は息子か孫の代になるが、その起源を尋ねてみれば、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの時代に整理された宮廷の職能に行き当たる。また宮廷に勤務する «国家公務員» の位階を整備したのもイヴァン・ヴァシーリエヴィチが最初だと言われる。
 こうして整備された国家機構に従事する官僚群を、新たな宮廷貴族(ドヴォリャニーン)として取り立て、それを支持基盤としてかつての分領公(いまやモスクワ大公に仕える勤務公)や、ボヤーリンと曖昧に呼称される世襲領地貴族に対するモスクワ大公の支配を貫徹しようとした。ツァーリという言葉をイヴァン・ヴァシーリエヴィチが使ったとしたら、その背景には、勤務公(かれらも公である)とモスクワ大公(公の中の第一人者ということでしかない)との差別をはっきりさせたいとの意図も働いたに違いない(«大王» が «天皇» と名乗りを変えたように)。

 こうした国力の充実を背景に、1476年以降、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはキプチャク・ハーンへの貢納をやめる。当時キプチャク・ハーンのアフマトはクリム・ハーン国の内紛に介入して動きが取れなかったというのも幸いした。
 そのクリム・ハーン国では、1476/78年にメングリ=ギレイが最終的に権力を確立。メングリ=ギレイはアフマトに対抗するため、イヴァン・ヴァシーリエヴィチと同盟する。
 なお、メングリ=ギレイに敗北した兄のヌール=デヴレトはリトアニアに亡命。その後1479年にはモスクワにやって来ている。1490年頃には、カザンのイブラーヒームの子アブドゥル=ラティーフもモスクワへ。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはズヴェニーゴロドを分領として与えている。
 すでに父の代にカーシム=トレグブという例があるが、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの治世になって、タタール(キプチャク、カザン、クリム等々)からモスクワへの亡命者が急増する。これは、タタール勢の内部抗争が激化した結果であるが、同時にタタールにとってイヴァン・ヴァシーリエヴィチが、つまりはモスクワが、«頼れる存在»、あるいは «魅力的な土地» と映ったためであろう。ちなみにそれまでは、100年前のトクタミシュのように、ステップを追われたタタールの亡命先はリトアニアだった(もちろんこの時代にもリトアニアに亡命するタタールはいたが)。

 1471年に屈服した後も、ノーヴゴロドでは反モスクワ派の策動がやまなかった。1477年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、自ら軍を率いてノーヴゴロドに侵攻。ノーヴゴロドでは親モスクワ派も反モスクワ派も、独立維持のために何とかイヴァン・ヴァシーリエヴィチと協定を結ぼうとするが、地主貴族たちは所領維持のために独立破棄もやむなしとしていた。モスクワの軍事的圧力に抗し得るはずもなく、交渉は長引いたものの、1478年、結局ノーヴゴロドは屈服。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、ついにノーヴゴロドを併合した。

 1479年、カザンのイブラーヒームが死去。イブラーヒームは比較的モスクワに対して友好的な政策を採っていたと言われる。このため、当時カザンには «親モスクワ派» と «反モスクワ派» との対立が生まれていたらしい。«反モスクワ派» がイルハーム(=ガリー)を擁立し、«親モスクワ派» に擁立されたムハンマド=アミーンはモスクワに亡命してきた。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはかれに、モスクワ南東の都市カシーラを与える。

 1479年、「他領を逃亡したボヤーリンを自由に受け入れる」という分領公の基本的な権利を侵し、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはヴォロク公ボリース・ヴァシーリエヴィチの分領内でイヴァン・オボレーンスキイ公を捕らえる。もはや分領公の権利は中央集権化の妨げとしかイヴァン・ヴァシーリエヴィチには映らなかったかもしれないが、権利を侵害されたボリース・ヴァシーリエヴィチは、ウーグリチ公アンドレイ・ゴリャーイと結び、さらにノーヴゴロドやカジミエラスとも通牒。
 ノーヴゴロドでは、1478年にモスクワに併合された後も反モスクワ派が独立回復の策謀をやめておらず、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの代官を追い出し、民会を再建して市長を選出。キプチャク・ハーン国では、アフマトがルーシへの宗主権回復を目指して、貢納をやめたモスクワへの侵攻を計画していた。この両者が、アンドレイ & ボリースカジミエラスと手を結んだ。

 1480年を、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、北西のノーヴゴロド、西のリトアニア、南東のキプチャク・ハーン、さらに内部にふたりの弟と、内憂外患を抱えて迎えた。まず弟たちには、ロストーフ大主教ヴァッシアーンを派遣して宥和を試みる。自らはノーヴゴロドに出陣。圧倒的な軍事力で再びノーヴゴロドを屈服させると、数千家族の商人や貴族をペレヤスラーヴリ、ヴラディーミル、ムーロム、ニージュニイ・ノーヴゴロドなどに強制移住させ、大主教領や修道院領を没収。動産も不動産も手当たり次第に接収して、ノーヴゴロドを壊滅させた。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチにとって幸いだったのは、«反モスクワ連合» の足並みが揃っていなかったことであろう。カジミエラスはノーヴゴロドの救援にも駆けつけず、アンドレイ & ボリースにも支援を送らず、このためヴァッシアーンの講和勧告を拒否したふたりも動くに動けず、腹癒せのようにプスコーフ(反ノーヴゴロドの立場からイヴァン・ヴァシーリエヴィチ側に立っていた)を荒らしていた。なお、この時リヴォニア騎士団もプスコーフに侵攻している。
 しかしこの時、アフマト率いるキプチャク・ハーン軍が北上。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、長男イヴァン・イヴァーノヴィチをセールプホフに、末弟アンドレイ・ヴァシーリエヴィチアンドレイ・ゴリャーイとは別人)をトルーサに派遣し、自らもコロームナに赴いた。しかしモスクワでは貴族たちが徹底抗戦派と一時撤退派とに分かれて収拾がつかず、イヴァン・ヴァシーリエヴィチ自身、妻と財産をベロオーゼロに避難させていた。
 アフマトはモスクワを目指して北上したが、リャザニ大公領や、モスクワ領となっていたトゥーラ(モスクワの真南)やカルーガよりも西寄りに進み、ウグラー河畔に至った。これは西方から来るべきリトアニア軍と合流するためだった。しかしウグラーの対岸にはすでにイヴァン & アンドレイが任地より移動して待ち構えており、渡河しようとするアフマトを撃退。こうしてイヴァン & アンドレイとアフマトは、ウグラー河畔で対峙を続けた。

コロームナ、セールプホフ、トルーサは、いずれもオカー河畔の都市で、古来タタールの襲来を迎撃する拠点となっていた。
 オカー河は、モスクワの南方を東西に走っているが、モスクワ南西のカルーガで直角に南に逸れていく。代わりに西へ延びていくのがウグラー河である。このウグラー河は、1408年以来モスクワとリトアニアの国境となっていた。ウグラーの北がモスクワ領、南がリトアニア領である。アフマト軍はつまり、リトアニア領を進軍してきたことになる。ウグラー河畔での対峙中、アフマト軍はこの地域、すなわちオドーエフ、ヴォロトィンスク、コゼリスクなどの上流諸公領を攻略している。あるいは、これがのちに上流諸公がリトアニアから離反していく一因ともなったのではないだろうか。

 イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、コロームナからモスクワに帰還したり、この期に及んでアフマトに講和を持ちかけたり(アフマトのもとに出頭するよう求められて断念)、ヴァッシアーンに叱咤されて再び出陣するもののモスクワ南郊でぐずぐずして、ウグラー河畔で対峙を続ける息子を呼び戻したりしていた(息子はこれを拒否)。もっとも、イヴァン・ヴァシーリエヴィチもただ怯えて手をこまねいていただけではない。アンドレイ & ボリースの分領公としての地位を再確認し、かれらと講和している。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチが戦場に赴かず、アフマトに講和を持ちかけたりしていたのは、時間を稼いでいたためだと言われる。実際、和解したアンドレイ & ボリースの軍がウグラー河畔に駆けつけており、またキプチャク軍には疫病が流行し始めていた。そもそも本拠地から遠く離れたキプチャク軍(しかも騎馬が主力)にとって、糧食その他の補給は無限ではない。冬も近づきつつあり、時間を稼ぐことが勝利につながる側面は確かにあった。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチにとってもうひとつ幸いだったのは、1476/78年にクリム・ハーンの座に返り咲いたメングリ=ギレイが、オスマン帝国のスルターンの宗主権を認め、キプチャク・ハーンと敵対していたことである。敵の敵は味方ということで、メングリ=ギレイはイヴァン・ヴァシーリエヴィチと共同歩調をとってアフマトと対立していた。当然、アフマトと同盟するカジミエラスとも敵対する。そしてカジミエラスの圧迫を受けるモルドヴァ公シュテファン偉大公とも結ぶ。こうして南方においてメングリ=ギレイとシュテファン偉大公と敵対するカジミエラスは、無闇に軍を東方に振り向けることができない状況にあった。それどころかメングリ=ギレイの存在は、本拠地のヴォルガ下流域を留守にしているアフマトにとっては気がかりであり、いつまでもウグラー河畔での対峙を続けていられない状況をつくりだしてもいた。
 ついにアフマトの期待したリトアニア軍は到着せず、それどころかアンドレイ & ボリースがモスクワ側の援軍として現れて、さらにキプチャク軍には冬の備えがなかったこともあって、渡河作戦を除いては戦闘らしい戦闘もせずにアフマトは南のステップへと撤退。これにより、240年に及んだ «タタールのくびき» に終止符が打たれた。
 もっとも、«ウグラー河畔の対峙» そのものを誇大視することはできない。100年前のクリコーヴォの戦いではドミートリイ・ドンスコーイがママイを破ったが、すぐにママイに替わったトクタミシュが権威を建て直し、結局ドミートリイ・ドンスコーイはトクタミシュの宗主権を認めている。今回はモスクワ軍が戦場で勝利を収めたわけですらない。幸いしたのは、アフマトが1481年に死に、その後ハーン位を巡る内紛が勃発したことである。このためキプチャク・ハーン側に、モスクワに再び侵攻する余裕がなくなった。しかもそうこうするうちに、1502年にはメングリ=ギレイがサライを攻略。最後のキプチャク・ハーンとなったシャイフ=アフメドがリトアニアに逃亡し、キプチャク・ハーン国そのものが滅亡した。結果として «ウグラー河畔の対峙» が画期となってしまっただけのことである。

 なお、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはアンドレイ・ゴリャーイにモジャイスクを与え、ボリース・ヴァシーリエヴィチには以前与えたヴィーシュゴロドの領有を再確認した。

 1481年、テュメニのイバクとノガイのヤムグルチが、アフマトの本営でアフマトを殺害。この時、イヴァン・ヴァシーリエヴィチとイバクとの間には何らかの密約があったとも言われる。
 この後、キプチャク・ハーンの地位を巡り、アフマトの子らムルタザ、サイド=アフメド、シャイフ=アフメド等が争い、イバクやヤムグルチも、さらには西からメングリ=ギレイもこれに介入し、キプチャク・ハーン国は事実上瓦解した。

イバクの素性は必ずしもはっきりしない。シャイバーニー朝(バトゥの弟シバンの子孫)の出身で、1460年代か1480年代かは諸説あるが(60年代説が一般的か?)、タイブガ家を倒して西シベリア南部に覇権を確立した。これがシビル・ハーン国である。つまりイバクは、初代シビル・ハーンということになる。
 ヤムグルチはエディゲイの孫。エディゲイに従う人々の末裔ノガイを、事実上ウズベク・ハーンやカザフ・ハーンから独立させたムサの弟。チンギス・ハーンの一族ではなかったのでハーンを名乗れなかったが、事実上ムサとヤムグルチの兄弟は «ノガイ・ハーン» である。

 1482年、カザンのイルハームがニージュニイ・ノーヴゴロドに来襲すると、フョードル・クールブスキイ公を派遣し、これを防衛。

 この頃、ペルムスカヤ・ゼムリャーにヴォグール(マンシ)人が来襲していたので、1483年、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはフョードル・クールブスキイ公を西シベリアに派遣。クールブスキイ公の軍は、遥かイルトィシュ河、オビ河にまで到達し、ヴォグール人、ユーグラ(ハンティ・マンシ)人を撃破。ヴォグール人の首長モルダンを捕虜とする。この結果、1484年にはヴォグール人やユーグラ人の首長がモスクワを訪れ、貢納を約束した。

ヴォグール人とユーグラ人とが具体的に誰を指していたのかよくわからないが、もともとユーグラとは地名。大雑把に、こんにちのハントィ=マンシ自治管区のあるオビ中流域を指す。この地域に住んでいた人々の総称としてユーグラ人という言葉が使われていたようだ。一方ヴォグール人とは、より西方に住んでいたマンシ人(の一部?)を指す。単純に言えば、かれらが住んでいたのは西シベリア北部。その南方にシビル・ハーン国があった。
 モスクワ(ロシア)のシベリア進出は、1582年のシビル・ハーン国征服以降とされることが多いが、現実にはすでに11世紀からノーヴゴロドが進出を始めている。ただし政治的・領土的なものではなく、経済的なものである。ノーヴゴロドの勢力圏を引き継いだモスクワが、カザン・ハーン国の遥か北方で、ペルムスカヤ・ゼムリャーなどウラル系諸民族を服属させながらウラルを越え、西シベリア北部に進出していっていたのである。

 1483年、エレーツを併合。

 1484年、カザンに侵攻。これに呼応して «親モスクワ派» がイルハームを廃位。ムハンマド=アミーンがハーンに招聘された。しかし翌1485年、«反モスクワ派» がムハンマド=アミーンを廃位してイルハームを復位させた。この時 «反モスクワ派» を支援していたのは、ノガイ軍と、ほかならぬモスクワだったという(イヴァン・ヴァシーリエヴィチが関与していたのかどうかわからん)。«親モスクワ派» にせよ «反モスクワ派» にせよ、モスクワの顔色を伺うことなく権力を握ることができない状況にあったということである。

 1484年、トヴェーリ大公ミハイール・ボリーソヴィチカジミエラスとの対モスクワ同盟を画策していることを口実に、トヴェーリ侵攻。ミハイール・ボリーソヴィチ以下のトヴェーリ系諸公を、事実上モスクワ大公の勤務公とした。
 1485年、ミハイール・ボリーソヴィチは再びカジミエラスに接近。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは再びトヴェーリに侵攻し、ミハイール・ボリーソヴィチはリトアニアに逃亡。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは長男イヴァン・イヴァーノヴィチミハイール・ボリーソヴィチの甥でもある)をトヴェーリ公としたが、これは事実上トヴェーリ大公領をモスクワに併合したことになる。

 1486年、カーシム=トレグブの子ダーニヤールが死去。親族がおらず、カシーモフ・ハーンは空位になった。このためイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、当時モスクワで «浪人» していた元クリム・ハーンのヌール=デヴレトにカシーモフ・ハーン国を与える。
 この年、キプチャク・ハーンのムルタザがメングリ=ギレイに対抗するためヌール=デヴレトに接近。しかしイヴァン・ヴァシーリエヴィチは、メングリ=ギレイとの同盟関係を維持するため、ムルタザの試みを妨害した。

 1487年、上流諸公間に紛争が勃発。一方がイヴァン・ヴァシーリエヴィチに頼れば、他方はカジミエラスに支援を要請し、こうしてなし崩し的にモスクワとリトアニアとの戦争が始まった。ただし、モスクワ軍とリトアニア軍が実際に戦火を交えることはなかった。上流諸公が代理戦争をおこなっていたようなものである。

 1487年、ダニイール・ホルムスキイ公をカザンに派遣。ホルムスキイ公はカザンを占領し、イルハームを捕虜として、ヴォーログダに幽閉した。ハーンにはムハンマド=アミーンを擁立し、以後、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはカザンを事実上の属国とする。

 1489年、ヴャーツカヤ・ゼムリャー(キーロフ州、ウドムルト共和国北部)を併合。

«ヴャーツカヤ・ゼムリャー» という歴史用語は、まったく無関係なふたつの地域を指す。
 ひとつは、キエフ・ルーシへの統合に最後まで抵抗したヴャーティチ人の住んだ土地で、オカー河の上流域、すなわちセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの北部、すなわち、ここで言う上流諸公領におおよそ相当する(現カルーガ州、トゥーラ州、あるいはさらにその周辺)。ヴャーティチ人が年代記で最後に言及されるのは1197年の項であり、半世紀も経たないうちにモンゴルの襲来を受けて上流諸公領が成立して、ヴャーツカヤ・ゼムリャーという言葉は使われなくなる。
 もうひとつがここで言うヴャーツカヤ・ゼムリャーで、これはヴャートカ河流域のことである。ヴャートカ河は、カザニの東方でカーマ河に北から合流する。つまりこのヴャーツカヤ・ゼムリャーは、カザン・ハーン国の北方に当たる(おおよそ現キーロフ州)。この地域にはウラル系諸民族が住んでいたが、早くも12世紀には北からノーヴゴロドの勢力が及んできていた。モンゴル襲来後は、北東ルーシからの避難民も流入。北のノーヴゴロド、西のヴラディーミル、南のヴォルガ・ブルガールの勢力が入り混じっていた。14世紀末から、その北部はニージュニイ・ノーヴゴロド、続いてモスクワの領土となる。しかしユーリー・ドミートリエヴィチに与えられたことから、その一族が1450年代に死滅すると事実上無主状態。一方南部は、ちょうどこの頃はカザン・ハーンの勢力圏となっていた。東方のペルムスカヤ・ゼムリャーよりもモスクワへの併合が遅れた背景には、このような事情があった。
 なお、前者においてヴャーツカヤ・ゼムリャーとは «ヴャーティチ人の土地» という意味であり、後者においては «ヴャートカ河流域» という意味である。このふたつの音(ヴャーティチとヴャートカ)の類似性が、単なる偶然なのか、それとも何か関係があるのかは不明。

 1489年、ヴォロトィンスク公ドミートリイ・フョードロヴィチベリョーフ公イヴァン・ヴァシーリエヴィチメゼツク公ミハイール・ロマーノヴィチ等が、カジミエラスへの臣従を破棄してイヴァン・ヴァシーリエヴィチに臣従した。

 1490年、長男イヴァン・イヴァーノヴィチが死去。系図を見れば一目瞭然だが、これまでモスクワ公家において、孫が祖父を継いだ例は存在しない。常に子が父を継いでいる。祖父ヴァシーリイ2世の代に、兄弟相続よりも長子相続が優先する原則が事実上確立していたが、それが孫にまで及ぶかどうかはまだはっきりしていない時代であった。
 長子相続の原則からすれば、長男イヴァン・イヴァーノヴィチの遺児であるドミートリイ・イヴァーノヴィチが後継者となるべきで、実際イヴァン・ヴァシーリエヴィチはドミートリイ・イヴァーノヴィチトヴェーリ公としている。イヴァン・イヴァーノヴィチの後を継がせたわけで、自然とモスクワ大公位の継承権もドミートリイ・イヴァーノヴィチに与えられることになっていただろう。
 ところがここで、大公妃ソフィヤ・パレオローグが口を出し、自身の生んだヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを後継者とするよう圧力をかけたらしい。ドミートリイ・イヴァーノヴィチは1483年生まれの幼児であり、その点では4歳年長のヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの方が有利であったと言えよう。
 こうしてイヴァン・ヴァシーリエヴィチも、孫のドミートリイ・イヴァーノヴィチと、子のヴァシーリイ・イヴァーノヴィチとのどちらを後継者にすべきかしばらく決めあぐねたようである。

 キプチャク・ハーンの位、あるいはキプチャク・ハーン国の本領であるヴォルガ下流域の支配を巡り、諸勢力が争う中で、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは1492年、メングリ=ギレイに援軍を派遣。この時、アンドレイ・ゴリャーイは従軍を拒否した。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはアンドレイ・ゴリャーイを逮捕。ペレヤスラーヴリに幽閉した(のち獄死)。さらに1494年にはボリース・ヴァシーリエヴィチが死去。末弟アンドレイ・イヴァーノヴィチも1481年に死んでおり、こうしてかつて反抗したふたりを含む、弟全員が姿を消したことで、後継問題に関する心配がひとつ消えたと言える。

 1493年、ダニイール・シチェニャー公がヴャージマ(リトアニア領)を占領。さらにベリョーフ公アンドレイ・ヴァシーリエヴィチヴォロトィンスク公イヴァン・ミハイロヴィチメゼツク公セミョーン・ロマーノヴィチ等が、リトアニア大公アレクサンドラスへの臣従を破棄し、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに臣従した(カジミエラスは前年に死んでいた)。
 1494年、アレクサンドラスと講和。ノーヴゴロド、トヴェーリ、ヴャージマの併合を認めさせ、プスコーフへの手出しをやめさせたほか、上流諸公に対する宗主権を認めさせた。
 1496年に娘エレーナアレクサンドラスと結婚させる。

 1487年のカザン占領以来、モスクワはカザンを従属国扱いしており、その商人たちも自由にカザン・ハーン国領を行き来していた。このような状況に不満を覚え、ノガイ勢と結んでモスクワの圧力に対抗しようとする勢力が一方にはいて、親モスクワ派と反モスクワ派との対立が激しさを増していた(クリム・ハーンと結ぼうとする試みもあったが、メングリ=ギレイ自身が親モスクワ政策を採っていたためあまり意味がなかった)。
 1495/96年、反モスクワ派が蜂起。これに乗じてイバクの弟マムクがヤムグルチ率いるノガイ軍の支援を得てカザンに侵攻。ムハンマド=アミーンを追ってカザン・ハーン位に就いた。
 モスクワに逃げてきたムハンマド=アミーンに、イヴァン・ヴァシーリエヴィチは再びカシーラを与えた。
 1497年、カザン市民はマムクを放逐し、イヴァン・ヴァシーリエヴィチに、ムハンマド=アミーンではなく、その弟アブドゥル=ラティーフを擁立する許可を求めた。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはこれを認め、ムハンマド=アミーンに対する補償としてさらにセールプホフを与えた。
 1499年、マムクの弟アガラクがカザンに侵攻。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはアブドゥル=ラティーフ支援のため、ベーラヤ公フョードル・イヴァーノヴィチセミョーン・ロマーノヴィチ公ダニイール・シチェニャー公を派遣する。

 北欧諸国では、14世紀にデンマーク、ノルウェー、スウェーデンで相次いで自前の王家が断絶し、しかも互いに密接に婚姻関係を結んでいたため、最終的に3ヶ国の王位はひとりの手に握られることになった。問題は、そのひとりがコペンハーゲンに居住したことである。これに反発したスウェーデンは、コペンハーゲンに居を構えたオレンボー家のクリスティアン1世と争っていた。結局クリスティアン1世はスウェーデン王位を確立できないままに死去。後を継いだハンスは、スウェーデンを実質的に支配するステン・ステューレと王位を巡って争いを続けていた。ステン・ステューレの中央集権化に反発する貴族たちはハンスを支持したものの、ステューレ派の抵抗は根強かった。
 1495年、ハンスはイヴァン・ヴァシーリエヴィチと同盟を結ぶ。この時ハンスは、スウェーデン王位を確保した暁にはモスクワにフィンランドの一部を割譲すると約束したとも言われるが、確かなところは不明である。
 この同盟に基づいて、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはダニイール・シチェニャー公をヴィープリ(ヴィボルグ)に派遣。翌1496年には軍にフィンランドを蹂躙させた。これにステン・ステューレも反撃するものの、1497年にはステン・ステューレ自身が失脚し、ハンスのスウェーデン王位が確立した。
 ちなみにこれは、1351年にスウェーデンのノーヴゴロド侵攻がうやむやのうちの終わって以来、初めてのモスクワ/ロシアとスウェーデンとの戦争らしい戦争であった。

 1497年、法典編纂。キエフ・ルーシの «ルースカヤ・プラヴダ» 以来、キエフ・ルーシの解体に伴って各地で独自に法律が施行されていて、中央集権を法的側面でも推進するためにイヴァン・ヴァシーリエヴィチが取り組んだのがこの法典編纂であった。

 1497年、貴族会議書記ヴラディーミル・グーセフの陰謀が発覚。これはイヴァン・ヴァシーリエヴィチの後継者選びにからんだもので、ヴァシーリイ派が挙兵してドミートリイ・イヴァーノヴィチを殺そうというものだったらしい。しかし計画が露見したことでむしろ逆効果となり、ソフィヤ・パレオローグは失権。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは監禁され、1498年にはドミートリイ・イヴァーノヴィチがウスペンスキイ大聖堂で大公として戴冠式をあげるに到った。
 自身の生前に跡継ぎを大公として即位させるというのは、イヴァン・ヴァシーリエヴィチ自身が父の生前に大公とされたことを踏襲したのだと言える。それは死後の継承争いを避けて、スムーズな権力継承を果たすためであるが、特にこの時は継承争いが勃発する可能性が高かったので、この措置は必要であった。
 ちなみに、この時の戴冠式がルーシ/ロシアでは初。西欧流の戴冠式は、世俗権力を超越する教皇のような権威を持たなかったルーシ/ロシアではおこなわれてこなかった(リューリコヴィチがルーシを私領扱いしてきた、ということもあるのかもしれない)。この時、ウスペンスキイ大聖堂でモスクワ府主教に戴冠させている点、宗教的権威を世俗権力の権威付けに利用しようという西欧と同じ発想に立っている。しかしこの戴冠式という新たな伝統は根付かなかった。次の戴冠式は半世紀後の1547年のことになる。

 リトアニア国内において、大公以下のリトアニア貴族が大挙してカトリックに改宗した100年前から、正教徒であるリトアニア領ルーシの諸公は基本的に «被差別階級» であった。特に、かれらが支持したシュヴィトリガイラが大公位継承戦争に敗北し、カジミエラスがポーランド王に即位して、カトリック勢力からの圧迫が強まっていた。1489年と1493年に、多数の上流諸公がリトアニア大公への臣従を破棄してイヴァン・ヴァシーリエヴィチに鞍替えしたのも、背景のひとつに強まりつつあるカトリックからの圧迫があったのではないだろうか。すなわち、リトアニアの貴族としてやっていくためにカトリックに改宗するか、正教の信仰を維持するためにリトアニアを棄ててモスクワに着くかの選択を、リトアニアのルーシ諸公は迫られていたのであろう。
 1499/1500年、ベーラヤ公セミョーン・イヴァーノヴィチが、アレクサンドラスへの臣従を破棄してイヴァン・ヴァシーリエヴィチに忠誠を誓う。これに、スタロドゥーブ公セミョーン・イヴァーノヴィチノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公ヴァシーリイ・シェミャーチチが追随した。所領を棄てて亡命したのと異なり、領土を保持したまま臣従の対象を替えたということは、国境の変更を意味する。イヴァン・ヴァシーリエヴィチがかれらを受け入れたのは、明らかに1494年の講和条約違反であった。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチはアレクサンドラスからの抗議を無視して、1500年、セミョーン・イヴァーノヴィチヴァシーリイ・シェミャーチチダニイール・シチェニャーヤーコフ・コーシュキンなどに率いさせた軍を派遣して、ブリャンスク、ゴーメリ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ、ルィリスク、チェルニーゴフ、スタロドゥーブ、プティーヴリなど、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーを併合。西方でもトローペツを占領する。この時メングリ=ギライが共同行動を取って、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ、ルーツク、ブレスト、クレーメネツを攻略した。
 1501年にはリヴォニア騎士団がプスコーフに侵攻。イヴァン・ヴァシーリエヴィチはヴァシーリイ・ネモーイダニイール・ペニコーを派遣するが、大敗を喫する。しかしアレクサンドラスがポーランド王位継承にかまけて援軍を送らなかったため、リヴォニア騎士団は撤退。他方でダニイール・シチェニャーはエストニアに侵攻した。
 1502年には、リヴォニア騎士団とプスコーフを巡って一進一退を続け、スモレンスクとオールシャを攻囲したが陥とせなかった。他方でメングリ=ギレイは相変わらずガーリチ=ヴォルィニを自由に攻略していた。メングリ=ギレイはさらにサライを攻略。キプチャク・ハーンのシャイフ=アフメドをリトアニアに追った。一般的にこれをもってキプチャク・ハーン国の滅亡とされる。

 1498年に決着のついたはずの後継者問題であったが、どうやら水面下では依然ドミートリイ派とヴァシーリイ派との暗闘が続けられていたものと思われる。1502年、突然ドミートリイ・イヴァーノヴィチとその母后エレーナ・ステパーノヴナが失権。代わってヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが大公とされた。同時にヴァシーリイに66の都市を与え(三男以下には併せて30)、三男以下に対する命令権を付与する。
 イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、その生涯に、ヤロスラーヴリ、ロストーフ、ノーヴゴロド、トヴェーリを併合し、また先立った弟たちの分領も接収していたため、父の跡を継いだ時点から存続する分領はプスコーフとリャザニのほかには、フョードル・ボリーソヴィチヴォロク公領だけとなっていた。しかし、1489年、1493年、1500年に相次いで上流諸公やセーヴェルスカヤ・ゼムリャー諸公が臣従したため、結局は分領が倍増していた。しかもイヴァン・ヴァシーリエヴィチ自身、三男以下の年少の息子たちに分領を与えている。分領という制度は、結局リューリク家が断絶するまで廃止できなかった。
 しかし、跡継ぎヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを自身の生前に大公として即位させ、さらにそれ以外の息子から隔絶した領土と立場を与えることで、国家の統一を維持した。

 1503年、アレクサンドラスとの講和で、旧セーヴェルスカヤ・ゼムリャーのほとんどを併合した。またリヴォニア騎士団との講和は、戦前の国境を再確認したにとどまったものの、リヴォニア騎士団の支配するユーリエフ(現タルトゥ、エストニア)に貢納を義務づけた。

 1503年、カシーモフ・ハーンのヌール=デヴレトが死去。もっとも、すでに10年以上前から実権は息子のサティルガンに譲っていたと言われる。サティルガンは、父の遺骸をクリミアに埋葬する許可をイヴァン・ヴァシーリエヴィチに求めてきた。この結果、ヌール=デヴレトの遺骸は、かつて敵対した弟メングリ=ギレイのもとに送られ、歴代カシーモフ・ハーンで唯一カシーモフ以外の地に葬られている。

 カザンでは、モスクワとノガイとの綱引き、親モスクワ派と反モスクワ派との対立が続いていた。そのような中、アブドゥル=ラティーフが成長するにつれて反モスクワ的傾向を示してきた。このため1502年にイヴァン・ヴァシーリエヴィチはカザンに使節を派遣。アブドゥル=ラティーフを廃位して、ムハンマド=アミーンを復位させる。アブドゥル=ラティーフはベロオーゼロに追放した。
 しかし、イヴァン・ヴァシーリエヴィチの傀儡的存在であったムハンマド=アミーンですら、反モスクワ派の存在やノガイの意向を無視することはできなかった。1505年、ムハンマド=アミーン率いるカザン軍がニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻し、これを焼き打ちしている。

 カザンに対する報復を実行する前に、イヴァン・ヴァシーリエヴィチはこの世を去った。
 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。

 添え名はこんにち一般的に «ヴェリーキイ»、すなわち「偉大な」が定着しているが、同時代の人々は «グローズヌィイ»、すなわち孫の添え名である「雷帝」を使っている。

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最終更新日 07 03 2013

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