ロシア学事始ロシアの君主リューリク家

モスクワ系

ヴラディーミル系モノマーシチの一系統。アレクサンドル・ネフスキイ(11)の子ダニイール(12)に始まる。

 ヴラディーミル大公領の南部を領有した。
 もっとも、当初は弱小の分領。始祖ダニイール・アレクサンドロヴィチは、アレクサンドル・ネフスキイの末男として、もらった領土も狭小だったし、ヴラディーミル大公位を巡る争いにも当事者としてかかわることはなかった。しかし1300年にコロームナ(リャザニ)、1302年にペレヤスラーヴリ(分領)を獲得して領土を拡大。発展の基礎を築いた。
 モスクワ系がヴラディーミル系一族の中で有力な地位を占めるのは、その子ユーリイイヴァンのダニイーロヴィチ兄弟(13)によってである。ユーリイ(13)は1303年にモジャイスク(スモレンスク)を占領してモスクワ川流域を確保したほか、1319年には父が獲得できなかったヴラディーミル大公位を獲得。弟のイヴァン・カリター(13)は1328年にウーグリチ(ロストーフ)を買収。兄に続いてヴラディーミル大公位を獲得し、トヴェーリ系と並ぶ有力諸公としての地位を確立。その子セミョーン傲慢公(14)は、トヴェーリ系の内紛を利してモスクワ公の権威を北東ルーシ諸公に認めさせた。
 これには、モスクワ系が代々キプチャク・ハーンに比較的従順で、その権威を背景に自身の力を増大させたという側面がある。実際キプチャク・ハーンは、イヴァン・カリター(13)の死後はその子セミョーン傲慢公(14)に、セミョーン傲慢公(14)の死後はその弟イヴァン赤公(14)にヴラディーミル大公位を認め、事実上その世襲を許している。こうして始祖ダニイール・アレクサンドロヴィチ(12)以来3世代にして、モスクワ系は北東ルーシに覇権を確立した。
 もうひとつ、ここまでモスクワ系では一族間の内紛がなかったことも大きい。ボリース・ダニイーロヴィチ(13)を除いて、兄に反抗した弟は特に現れず、また分家も続かず、モスクワ系一族が一体となっていたことが、その勢力拡大に有利に働いたことは疑いない。
 ドミートリイ・ドンスコーイ(15)の治世初期は、多少の混乱を見たものの、すでに権威を確立していたモスクワ公に寄生する貴族たちの支持により、ドミートリイ・ドンスコーイ(15)はかえって父祖以上にモスクワ公の権威を確固たるものとすることができた。1363年にガーリチ=メールスキイとスタロドゥーブ(分領)、1364年にコストロマーやヴラディーミル、1380年にベロオーゼロ(ロストーフ)、1380年代にカルーガと、領土を拡大。しかしそれ以上に、1375年にトヴェーリ公を屈服させ、1380年にクリコーヴォの戦いでキプチャク・ハーン軍を破ったことが大きい。かれ以降、ヴラディーミル大公位はモスクワ公の世襲となり、モスクワ公自身がモスクワ大公を称するようになった。
 ヴァシーリイ1世(16)は1393年にスーズダリ大公領ムーロム公領、トルーサ、メシチェラーに対する権利をキプチャク・ハーンから認められ、リャザニ大公にも事実上の宗主権を認めさせた。ヴァシーリイ2世(17)の治世には、モスクワ系で初めて内乱が勃発したものの、これを終息させる過程でモスクワ大公の権威はさらに高まったと言っていいだろう。
 そして北東ルーシのみならず、当時リトアニアから独立していたルーシ領全体におけるモスクワ大公の絶対的な権威を確立したのが、その子イヴァン3世(18)である。1463年にヤロスラーヴリ(分領)、1472年にペルムスカヤ・ゼムリャー、1474年にロストーフ公領、1478年にノーヴゴロド、1485年にトヴェーリ公領、1489年にヴャーツカヤ・ゼムリャー、1494年に上流諸公領、1503年にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーと、その領土を急速に拡大。カザン・ハーン国も属国化し、リトアニアを圧迫し、クリム・ハーン国とは友好関係を維持して、モスクワはかつてない勢力となった。また双頭の鷲の紋章を導入し、«ツァーリ» を自称するなど、かれの治世はまさに時代を画するものとなった。
 この間、モスクワ系は、アンドレイ・イヴァーノヴィチ(14)の系統、ヴァシーリイ1世の弟たち(16)の系統、そしてイヴァン3世の弟たち(18)と、リューリコヴィチの例に漏れず、いくつかの分領を生んできた。そしてユーリー・ドミートリエヴィチ(16)とその子ら(17)が、ヴァシーリイ2世に反抗して内紛を起こしている。しかしモスクワ大公による中央集権体制の推進という基本軸は、ぶれることなく維持されていた。実際、モスクワ系全体が領有する領土(中心となるのがモスクワ大公の領土)が幾何級数的に拡大していく中で、分領の規模は相対的に縮小されていく。しかもヴァシーリイ2世(17)とイヴァン3世(18)は情け容赦なく親族の分領を没収。それどころか分領公の権利を踏みにじり、分領公を臣下と同じように扱うことで、モスクワ大公の絶対性を強調した。

 多くの一般向けの本で、ロシアの歴代君主をイヴァン3世(18)から始めているのは故なきことではない。ただ単にかれが初めてツァーリを自称したから、というだけではない。かれはまさに、全ルーシ(リトアニアに征服されていないルーシ)の唯一の絶対的な支配者であった。ある意味では、ヴァシーリイ3世(19)もイヴァン4世(20)も、その路線を踏襲しただけだと言ってもいいだろう。
 ヴァシーリイ3世(19)はプスコーフ(1510)、スモレンスク(1514)、リャザニ(1521)を併合し、こうしてリトアニアにもモスクワにも属さないルーシの地は姿を消した。イヴァン4世(20)はさらにカザン(1552)、アストラハンとバシュキール(1556)、シビル(1582)を併合し、クリム・ハーン国とノガイを除くかつてのキプチャク・ハーン国の大部分を支配下に収めた。ふたりの時代、親族の分領公は事実上ツァーリの臣下となっており、その意味ではもはや «分領公» という言葉自体が意味をなくしていた。
 しかしこの中央集権化の時代は、分家が相次いで消滅していった時代でもある。すでにセールプホフ系(アンドレイ・イヴァーノヴィチの子孫)はイヴァン3世の時代に断絶し、モジャイスク系(アンドレイ・ドミートリエヴィチの子孫)もヴァシーリイ3世の時代に姿を消した。残る分家もすべてイヴァン4世の時代に相次いで断絶。イヴァン4世が死んだ時点で、モスクワ系はその子のフョードルドミートリイ(21)だけとなっていた。そしてこのふたりに子がなかったことから、モスクワ系は1598年に断絶。300年以上に及ぶ一族の歴史に幕をおろした。

 家系図はこちらの画像

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最終更新日 07 03 2013

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