エレーナ・イヴァーノヴナ
Елена Ивановна, Helena Moskiewska
大公女 великая княжна
リトアニア大公妃 (1495-1506)
ポーランド王妃 (1501-06)
生:1476.05.19−モスクワ
没:1513.01.20−ヴィリニュス(リトアニア)
父:モスクワ大公イヴァン3世大帝 (モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公)
母:ソフィヤ・パレオローグ (モレア僭主トマス・パライオロゴス)
結婚:1495
& リトアニア大公アレクサンドラス/ポーランド王アレクサンデル 1460-1506
子:なし
第19世代。モノマーシチ(モスクワ系)。イヴァン3世の第四子(三女)。
父イヴァン3世とリトアニア大公アレクサンドラスとの講和(1494)に伴い、アレクサンドラスと結婚。
なおこの時、エレーナ・イヴァーノヴナは正教の信仰を保つ(カトリックに改宗しない)ことが認められた。これもあって、カジミエラス以来正教徒に対する締め付けが強まっていたリトアニアで、正教貴族の庇護者的役割も果たす。
1505年、ラドム議会でアレクサンドラスはリトアニアの正教貴族にカトリック貴族と同等の権利を与えた。これにもエレーナ・イヴァーノヴナの影響があったと言われる。
当時モスクワ・ロシアとポーランド=リトアニアは、国境を巡ってスモレンスクで、チェルニーゴフで、激しく争っていた。エレーナ・イヴァーノヴナが嫁いでからも、1500年から03年、1507年から08年と、2度にわたって両者は戦火を交えている。そのいずれにおいても、エレーナ・イヴァーノヴナは講和を推進した。
1506年、夫が死去。ポーランド=リトアニアは、義弟のジギマンタス/ジグムントが継いだ。アレクサンドラスとの関係も必ずしも良かったとは言えないようだが、ジギマンタスとの関係はそれ以上に悪いものだった。
1511年、再び戦争が勃発しようとする中、エレーナ・イヴァーノヴナはモスクワに逃亡しようとしたとの疑いで、旧都トラカイに監禁される。
1512年にロシアとポーランド=リトアニアとの戦争が勃発する中、不可解な状況で死んだと伝えられる(暗殺されたとも言われる)。
ヴィリニュスの聖母大聖堂に埋葬されている。