ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ドミートリイ・ユーリエヴィチ «シェミャーカ»

Дмитрий Юрьевич "Шемяка"

ガーリチ公 князь Галичский (1433-50)
ウーグリチ公 князь Углицкий (1441-48)
モスクワ大公 великий князь Московский (1446)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1446)

生:?
没:1453.07.17−ノーヴゴロド

父:ズヴェニーゴロド公ユーリイ・ドミートリエヴィチモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ
母:アナスタシーヤ (スモレンスク公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ

結婚:1436
  & ソフィヤ公女 (ザオゼーリエ公ドミートリイ・ヴァシーリエヴィチ

子:

生没年
母親不詳
イヴァン
マリーヤ-1456チャルトルィースク公アレクサンドル

第17世代。モノマーシチ(モスクワ系)。

 生年は不明。1420年という説もあるが、すでに1433年から父や兄とともに軍事行動で主体的な役割を果たしていたことから想像すると、もう少し早かったのではないかと思われる。実際、多くの文献が1400年代前半の生まれを示唆している。
 これにからんで、ドミートリイ赤公との長幼の順も不明。なお、ふたりのドミートリイを区別するため、ここではドミートリイ・ユーリエヴィチではなくドミートリイ・シェミャーカと表記する。

 1433年、従兄弟のモスクワ大公ヴァシーリイ2世の婚礼に、兄ヴァシーリイ・コソーイとともに参列。この時に兄の締めていた帯を母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナに奪われるという事件が起こり、怒ったユーリエヴィチ兄弟はモスクワを退去。父のもとに赴いた。これを受けて、父が挙兵。ドミートリイ・シェミャーカは兄とともに従軍し、モスクワ軍を撃破。父のモスクワ大公即位を助けた。
 しかし父がヴァシーリイ2世にコロームナを与えて融和すると、ドミートリイ・シェミャーカは兄とともにこれに反発。この措置を進言した父の側近セミョーン・モローゾフを殺し、兄とともにコストロマーに逃亡した。
 他方、コロームナに赴いたヴァシーリイ2世のもとには、かれを支持する分領公やボヤーリン、宮廷官僚たちが続々と結集し、いまや彼我の勢力バランスは逆転した。このため父は、ヴァシーリイ2世と講和。モスクワを明け渡して、ガーリチ=メールスキイに帰還した。

 ドミートリイ・シェミャーカは、兄ヴァシーリイ・コソーイとともに、ヴァシーリイ2世との講和を頑なに拒否。コストロマーに軍を結集し、モスクワ軍との敵対を続けた。父は当初、息子たちに合流することを拒否したが、ユーリエヴィチ兄弟の軍にガーリチ軍がまじっていたことからヴァシーリイ2世がガーリチ=メールスキイに侵攻。こうして父も否応なく再戦に追い込まれた。
 1434年、父と合流したユーリエヴィチ兄弟は、ロストーフ近郊でモスクワ軍を破り、モスクワに入城。父が再びモスクワ大公となった。
 ヴァシーリイ2世はニージュニイ・ノーヴゴロドに逃亡したが、ドミートリイ・シェミャーカがドミートリイ赤公とともにその討伐を父から命じられ、出陣した。しかしその直後、父が死去。

 父の死を受けて、モスクワに残っていた兄ヴァシーリイ・コソーイモスクワ大公位を継いだ。しかしこれに、ふたりのドミートリイが反発。ヴァシーリイ2世と講和し、ともにモスクワに向けて進軍した。兄は逃亡。ヴァシーリイ2世モスクワ大公に返り咲いた。
 褒章として、ドミートリイ・シェミャーカはヴァシーリイ2世からルジェーフとウーグリチを与えられた。

 なお、この辺り、ドミートリイ・シェミャーカの分領については史料により言うことが異なる。
 父の遺領はガーリチ=メールスキイとズヴェニーゴロドだったが、前者をドミートリイ赤公が、後者をドミートリイ・シェミャーカが相続したとする説もある。ウーグリチが与えられたのはドミートリイ赤公で、1441年のドミートリイ赤公の死後ドミートリイ・シェミャーカがこれを相続したとする説もある。

 その後もヴァシーリイ・コソーイヴァシーリイ2世への反抗をやめず。1435年、ヴァシーリイ・コソーイがウーステュグを占領した際には、ドミートリイ・シェミャーカはヴァシーリイ2世に拘束されている。しかしこの年のうちにヴァシーリイ・コソーイは最終的に無力化され、あるいはそのためか、ドミートリイ・シェミャーカにも分領が返還された。

 1437年、ドミートリイ赤公とともにモスクワ軍を率いてウル=ムハンマド軍と戦う(敗北)。

 1441年、ドミートリイ赤公の死で、ガーリチ=メールスキイ、ウーグリチ、ベジェツキイ・ヴェルフ、ルジェーフを領有することになった。父の遺領のひとつズヴェニーゴロドがどうなっていたかはよくわからない。おそらく大公領に併合されていたのだろう。

 1445年、ヴァシーリイ2世はカーメンカ河畔でウル=ムハンマド軍と戦い、大敗を喫する。ヴァシーリイ2世は捕虜となった。
 最年長者として留守のモスクワを護っていたドミートリイ・シェミャーカはハーンとの交渉を開始したが、この時ドミートリイ・シェミャーカは、ヴァシーリイ2世を釈放しないよう働きかける。
 結局ヴァシーリイ2世は多大の身代金を払って釈放されるとともに、ドミートリイ・シェミャーカの陰謀を知ってしまった。
 ドミートリイ・シェミャーカは従兄弟モジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチトヴェーリ公ボリース・アレクサンドロヴィチと共謀。

 1446年、ヴァシーリイ2世がセールギエフ・ポサードの三位一体セールギイ修道院を訪問した際、ドミートリイ・シェミャーカはモスクワを占領。モジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチが三位一体セールギイ修道院でヴァシーリイ2世を捕らえた。
 ドミートリイ・シェミャーカはヴァシーリイ2世をモスクワに連れてこさせ、眼をつぶした上でウーグリチに幽閉した。

 ドミートリイ・シェミャーカは、スーズダリ系のヴァシーリイ & フョードルのユーリエヴィチ兄弟に、ニージュニイ・ノーヴゴロド大公領の復活を認めた。なおこれはまだヴァシーリイ2世を捕らえる前のことだともされる。

 この間、ヴァシーリイ2世派のボヤーリンたちが、ヴァシーリイ2世の釈放を要求。ドミートリイ・シェミャーカは軍を派遣するものの、イヴァン & セミョーンのリャポロフスキイ公兄弟やイヴァン・«ストリガー»・オボレーンスキイ公には敗北し、さらにリトアニアに逃亡していたボーロフスク公ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチヴァシーリイ2世救出のための策動を続けていた。
 他方、リャザニ主教イオーナ(のち府主教)の取り成しもあり、ドミートリイ・シェミャーカはヴァシーリイ2世を釈放。和解した上でヴォーログダを分領として与えた。

 しかしこの措置は、ヴァシーリイ2世派を結集させるだけだった。トヴェーリ公ボリース・アレクサンドロヴィチが寝返ってヴァシーリイ2世をトヴェーリに招くと、ヴァシーリイ・ヤロスラーヴィチイヴァン・«ストリガー»・オボレーンスキイ公、リャポロフスキイ公兄弟、その他のボヤーリンたちがトヴェーリに結集。
 ドミートリイ・シェミャーカは、モジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチとともにヴォロクに出陣。しかしこの隙に、ボリース・アレクサンドロヴィチが一隊をドミートリイ・シェミャーカ不在のモスクワに派遣し、モスクワではボヤーリンも教会もヴァシーリイ2世支持にまわり、シェミャーカ派が捕らえられ、モスクワはヴァシーリイ2世派の手に陥ちた。さらにヴァシーリイ2世ボリース・アレクサンドロヴィチはトヴェーリから出陣し、ヴォロクに進軍してきた。
 モスクワの陥落と敵軍の接近を知り、ドミートリイ・シェミャーカは分領ガーリチ=メールスキイに逃亡した。ドミートリイ・シェミャーカのモスクワ大公在位は1年に満たない10ヶ月で終わった。

 モスクワ・トヴェーリ連合軍は、さらにドミートリイ・シェミャーカを追撃し、ウーグリチを陥落させた。この間、1447年、ヴァシーリイ2世は1年振りにモスクワに帰還した。
 ドミートリイ・シェミャーカは、捕虜としていたソフィヤ・ヴィトフトヴナを釈放。トヴェーリ軍が攻囲していたルジェーフも陥落し、いつしかモジャイスクに戻っていたイヴァン・アンドレーエヴィチヴァシーリイ2世に屈服。こうして手詰まりとなったドミートリイ・シェミャーカは、ヴァシーリイ2世と講和。ウーグリチ、ルジェーフ、ベジェツキイ・ヴェルフを譲渡し、大公位を狙わないことを誓った。

 ドミートリイ・シェミャーカは、その後も策謀をやめなかった。これはひとつには、モジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチもまた策謀をやめなかったためだろう。両者は協調して分領諸公への働きかけを続け、あるいはノーヴゴロドに赴いては自ら大公を自称して支援を要請したり、ヴャートカ地方の住民にモスクワへの叛乱を呼びかけたり、カザン・ハーンからモスクワへの使者を拘束したりしている。
 ヴァシーリイ2世が主教会議に要請してドミートリイ・シェミャーカへの改心を呼びかけさせても、ドミートリイ・シェミャーカは聞く耳を持たず。業を煮やしたヴァシーリイ2世は1448年に軍を挙げる。この段階になってようやくドミートリイ・シェミャーカはヴァシーリイ2世に屈服し、以前の条件で講和を結んだ。

 1449年にはまた誓約を破棄。コストロマーに進撃して再びヴァシーリイ2世と軍事衝突。しかしコストロマーは奪えず、ヴァシーリイ2世からベジェツキー・ヴェルフを割譲されたイヴァン・アンドレーエヴィチが寝返って、ドミートリイ・シェミャーカも講和を余儀なくされた。

 1450年、モスクワ軍がガーリチ=メールスキイに侵攻。ヴァシーリイ・コソーイ=オボレンスキイ公によりドミートリイ・シェミャーカは大敗を喫する。ガーリチ=メールスキイはモスクワに併合された。
 分領を失ったドミートリイ・シェミャーカはノーヴゴロドに逃亡。これ以後、ノーヴゴロドはドミートリイ・シェミャーカを事実上ノーヴゴロド公として遇している。形式的には依然ヴァシーリイ2世ノーヴゴロド公として認めていたが、反モスクワ感情がドミートリイ・シェミャーカに対する支援に結びついたのだろう。
 ドミートリイ・シェミャーカは、軍を集めてウーステュグを占領。さらにヴォーログダに侵攻。ウーステュグを拠点に、ヴャートカ地方の住民や、果てはヴォグール人にまで反ヴァシーリイ2世闘争への参加を呼びかけている。
 1452年、ヴァシーリイ2世がウーステュグに侵攻し、ドミートリイ・シェミャーカはノーヴゴロドに逃亡。改めて軍を召集し、トヴェーリに侵攻するが、ボリース・アレクサンドロヴィチに撃退される。
 1453年、ヴァシーリイ2世の命により、ドミートリイ・シェミャーカの部下が買収されて毒殺されたという。

 ノーヴゴロドのユーリエフ修道院に葬られる。

 なお、添え名の «シェミャーカ» については、語源・意味は不明。

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最終更新日 07 03 2013

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