ドミートリイ・イヴァーノヴィチ
Дмитрий Иванович
トヴェーリ公 князь Тверской (1490-1509)
生:1483.10.10
没:1509.02.24 (享年25)
父:トヴェーリ公イヴァン若年公 (モスクワ大公イヴァン3世大帝)
母:エレナ (モルドヴァ公シュテファン3世偉大公)
結婚:?
子:?
第20世代。モノマーシチ(モスクワ系)。
1490年、父が死去。ドミートリイ・イヴァーノヴィチがトヴェーリ公位を継いだ。
父は、祖父イヴァン3世の長男。このため、長子相続制に従えばドミートリイ・イヴァーノヴィチが祖父の後継者となるはずであった。しかし当時のルーシではまだ長子相続制は確立しておらず、ましてやドミートリイ・イヴァーノヴィチは1490年の時点でまだ6歳の若年であった。加えて、父の腹違いの弟である叔父のヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが、わずか4歳とはいえ年長であり、その母親であり義母のソフィヤ・パレオローグがヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを跡継ぎとするよう圧力をかけた。
こうして父の死後、祖父の後継者が誰になるのか、ドミートリイ・イヴァーノヴィチか、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチか、クレムリン内で貴族たちを二分する争いが起こり、祖父も決めかねていたようだ。
しかしそうこうする間に、親ドミートリイ派と親ヴァシーリイ派の貴族の対立は激化し、ついには親ヴァシーリー派がドミートリイ・イヴァーノヴィチの暗殺を計画するまでに至った。この陰謀は1497年に露見し、これが親ヴァシーリー派の没落をもたらした。
1498年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチは祖父により後継者とされ、大公に即位した(当然名目のみで、実権は依然祖父が握る)。
しかしここから、一旦は没落した親ヴァシーリー派の巻き返しが始まる。おそらくその狙い目となったのが、母エレーナ・ステパーノヴナと «ジドーヴストヴユシチエ» という異端宗派とのかかわりだったろう。早くも1499年には、親ドミートリイ派の両巨頭イヴァン・パトリケーエフ公とセミョーン・リャポロフスキイ公が失脚。
1502年、ドミートリイ・イヴァーノヴィチとエレーナ・ステパーノヴナは失権、投獄された。代わってヴァシーリー・イヴァーノヴィチが後継者・大公とされた。
1505年、祖父の死でヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが後を継ぐ。その後もドミートリイ・イヴァーノヴィチは獄中に幽閉されたまま、1509年に死を迎えた。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。