聖ダニイール・アレクサンドロヴィチ
Св. Даниил Александрович
モスクワ公 князь Московский (1263-1303)
ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公 князь Переяславский (1302-03)
生:1261
没:1303.03.03−モスクワ
父:ヴラディーミル大公アレクサンドル・ネフスキイ (ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ)
母:アレクサンドラ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ)
結婚:
& マリーヤ
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | ユーリイ | 1280-1325 | モスクワ |
2 | アレクサンドル | -1309/22 | |
3 | ボリース | -1320 | |
4 | イヴァン | -1340 | モスクワ |
5 | アファナーシイ | -1322 | ノーヴゴロド |
第12世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名ダニイール。アレクサンドル・ネフスキイの四男(末男)。
モスクワ系モノマーシチの始祖。
1263年に父が死去。この時モスクワを分領として相続したともされるが、おそらく幼年だったため、実際にモスクワを獲得したのは後年のことだろう。ヴラディーミル大公位を継いだ叔父のトヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチに養育されたらしい。
1276年、長兄のペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチがヴラディーミル大公となる。この時ダニイール・アレクサンドロヴィチがモスクワを分領としてもらったともされる。
1281年、次兄ゴロデーツ公アンドレイ・アレクサンドロヴィチが、キプチャク・ハーンの支持を得てドミートリイ・アレクサンドロヴィチを追い、ヴラディーミル大公に。
1283年(1282年?)、ノガイ・ハーンの支持を得たドミートリイ・アレクサンドロヴィチが、アンドレイ・アレクサンドロヴィチを追いヴラディーミル大公に返り咲く。
ダニイール・アレクサンドロヴィチがルーシ諸公のひとりとしての活動を開始したのは、この1282/83年からである(この年にモスクワを獲得したとする史料もある)。ダニイール・アレクサンドロヴィチはアンドレイ・アレクサンドロヴィチを支持。トヴェーリ公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチとともにドミートロフを攻略するなど、長兄と戦っている(もっともドミートロフ攻略では実際の戦闘は行われず、講和している)。
1285年、今度はアンドレイ・アレクサンドロヴィチがノガイ・ハーンの支持を得て、ヴラディーミル大公位を奪回。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはプスコーフに逃れる。
1294年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチが死去。アンドレイ・アレクサンドロヴィチはその遺領ペレヤスラーヴリ=ザレスキイを征服しようとするが、これにトヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチが反対し、遺児イヴァン・ドミートリエヴィチを支援。ダニイール・アレクサンドロヴィチも次兄に反対し、トヴェーリ・ペレヤスラーヴリ・モスクワ連合を形成する。
1297年、イヴァン・ドミートリエヴィチがサライに伺候した隙にアンドレイ・アレクサンドロヴィチがペレヤスラーヴリ=ザレスキイに侵攻するが、イヴァン・ドミートリエヴィチに後事を託されていたダニイール・アレクサンドロヴィチとミハイール・ヤロスラーヴィチがこれを撃退した。
1301年、ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイに侵攻。これを占領し、リャザニ大公コンスタンティーン・ロマーノヴィチを捕虜とする。しかしダニイール・アレクサンドロヴィチに仕えるボヤーリンたちは、リャザニの歓心を買うため、ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイは返還した。しかしコロームナは併合し、コンスタンティーン・ロマーノヴィチも捕虜としてとどめ置いた。
1302年、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公イヴァン・ドミートリエヴィチが死去。子がなかったため、生き残っていた叔父たちヴラディーミル大公アンドレイ・アレクサンドロヴィチとダニイール・アレクサンドロヴィチとのうち、年少のダニイール・アレクサンドロヴィチに分領を遺贈した。これまでの関係を考えれば当然の選択だろう。
アンドレイ・アレクサンドロヴィチは改めてペレヤスラーヴリ=ザレスキイを併合しようと、イヴァン・ドミートリエヴィチの死に際して代官を派遣。ダニイール・アレクサンドロヴィチはこれを力づくで追い払い、自らの代官を派遣してこれを併合した。
モスクワ公領の領土を、2倍に拡大した。もっとも、元々モスクワ公領の版図がそれほど大きくなかっただけのことで、獲得した領土はペレヤスラーヴリ=ザレスキイとコロームナのみ。
葬られた場所については不明(アルハンゲリスキイ大聖堂とする説もあるが、当時はアルハンゲリスキイ大聖堂は存在しなかったので、この説が正しいとすればのちに改葬されたということになる)。