アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ «ゴリャーイ»
Андрей Васильевич "Большой", "Горяй"
ウーグリチ公・ズヴェニーゴロド公 князь Углицкий и Звенигородский (1462-92)
生:1446.08.03/08/13/14/19−ウーグリチ
没:1493.11.07/1494.10.07
父:モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公 (モスクワ大公ヴァシーリイ1世・ドミートリエヴィチ)
母:マリーヤ (マロヤロスラーヴェツ公ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ)
結婚:1470
& エレーナ公女 -1483 (メゼツク公ロマーン・アンドレーエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
エレーナ・ロマーノヴナと | |||
ウリヤーナ | -1537 | イヴァン・クベンスキイ公 | |
エレーナ/エヴドキーヤ | アンドレイ・クールブスキイ公 | ||
1 | イヴァン | 1477-1522 | 修道士イグナーティイ |
2 | ドミートリイ | 1483-1541 |
第18世代。モノマーシチ(モスクワ系)。ヴァシーリイ2世の五男。ただし長男ユーリーと四男セミョーンが早世していたので、事実上三男。
1446年、父はドミートリイ・シェミャーカに捕らえられ、目をつぶされた上で、妻子ともどもウーグリチに幽閉された。アンドレイ・ヴァシーリエヴィチは、獄中で生まれた。
1462年、父の死で、ウーグリチ、ズヴェニーゴロド、ベジェツキー・ヴェルフなどを分領としてもらう。
1473年、次兄ユーリイ・ヴァシーリエヴィチが死去。遺領はすべて長兄イヴァン3世大帝が没収し、アンドレイ等の弟たちには何も与えられなかった。これが、アンドレイとボリースのふたりを怒らせたと言われる(末弟アンドレイ・メニショーイは長兄に忠実だった)。
イヴァン大帝とアンドレイ & ボリースの関係を決定的に悪化させたのは、1479年の事件だった。
この年、イヴァン大帝に仕えていたボヤーリンのイヴァン・オボレーンスキイ公が、イヴァン大帝のもとを去ってボリース・ヴァシーリエヴィチに鞍替えする。「他領を逃亡したボヤーリンを自由に受け入れる」ことは古来分領公の基本的な権利であった。別の言い方をすれば、ボヤーリンには自由に自らの主君を選ぶ権利があり、分領公にはその権利を尊重すべき義務があったと言ってもいいかもしれない。しかし中央集権化を推進し、分領公の上に君臨する専制君主への道を歩んでいたイヴァン大帝は、自らを見限ったボヤーリンを赦すことはできず、ボリース・ヴァシーリエヴィチの分領内でイヴァン・オボレーンスキイ公を逮捕した。
イヴァン大帝による分領公の権利の侵害は、ひとりボリース・ヴァシーリエヴィチだけの問題ではない。アンドレイ・ヴァシーリエヴィチは弟と共同で兄に対抗する方途を探りはじめた。
1480年、アンドレイ & ボリースはノーヴゴロドに侵攻。
時あたかもキプチャク・ハーン・アフマートがモスクワへの侵攻を計画しており、窮地に立たされたイヴァン大帝はロストーフ主教ヴァッシアーンを派遣し、アンドレイ & ボリース兄弟に講和を認めた。
しかしアンドレイ & ボリースはモスクワに使節を派遣する一方で、リトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世とも交渉を進めた。もっともカジミエラスはポーランドの統一、ボヘミア・ハンガリー王位の獲得に忙しく、援助を断った。
アンドレイ & ボリースはプスコーフへ。プスコーフも支援を断ると、兄弟はプスコーフ公領を略奪。
まさにこの時、アフマート・ハーンがモスクワに進撃。イヴァン大帝はアンドレイ & ボリースの分領公としての地位を再確認し、講和。アンドレイ & ボリースは軍を率いてウグラ河畔へ。この結果、アンドレイ・ヴァシーリエヴィチはモジャイスクを獲得した。
1484年、母后マリーヤ・ヤロスラーヴナが死去。マリーヤ・ヤロスラーヴナは兄弟の誰よりもアンドレイ・ヴァシーリエヴィチを溺愛してきた。以後アンドレイ・ヴァシーリエヴィチは、イヴァン大帝からの反撃を怖れることになる。
1485年、イヴァン大帝のトヴェーリ遠征に従軍。
1492年、同盟者であるクリム・ハーン・メングリ=ギレイに東方からタタール軍が迫っていることを知り、イヴァン大帝は救援軍を派遣。ボリース・ヴァシーリエヴィチも援軍を派遣したが、アンドレイ・ヴァシーリエヴィチはイヴァンの命令にもかかわらずこれを拒否。
その年、モスクワに招かれたアンドレイ・ヴァシーリエヴィチは、イヴァン大帝に捕らえられる。子供たちもペレヤスラーヴリに幽閉され、アンドレイ・ヴァシーリエヴィチは獄死した。
モスクワのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られている。
なお、子供たちはイヴァン大帝の死後も生き残ったが、ヴォーログダの修道院で生涯を閉じた。ふたりとも聖者に列せられている。
添え名の «ゴリャーイ» は、«ゴーレ(悲しみ・不運)の人» を意味する。獄中で生まれ、獄中で死んだかれの生涯を反映した添え名であろう。