ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Ярослав Владимирович
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1182-84、87-96、97-99)
トルジョーク公 князь Торжский (1196-97)
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1199-1201)
生:?
没:1201?
父:ドロゴブージュ公ヴラディーミル・マーチェシチ (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公)
母:? (クロアティア総督ベロシュ)
結婚:
& エレーナ? マルファ? ・シュヴァルノヴナ
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
マルファ・シュヴァルノヴナと | |||
1 | イジャスラーフ | 1190-98 | ヴェリーキエ・ルーキ |
2 | ロスティスラーフ | 1193-98 |
第10世代。モノマーシチ。洗礼名ヨアン(=イヴァン)。
生年は不明だが、両親の結婚が1150年とされるので、おそらく1150年代だろう。
1171年、父が死去。おそらくヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチは分領もなく、路頭に迷っただろう(父の領有していたドロゴブージュは長兄と思われるムスティスラーフが継いだが、すぐに失っている)。
妻のエレーナ・シュヴァルノヴナ?(マルファ・シュヴァルノヴナ?)は、父の従兄弟フセーヴォロド大巣公の妻の姉妹。
おそらくそのためだろう、1182年、フセーヴォロド大巣公によりノーヴゴロド公とされる。あるいは逆に、フセーヴォロド大巣公と密接な関係にあったから、その妻の姉妹と結婚したのか? 父の死後、フセーヴォロド大巣公のもとに身を寄せていたのかもしれない。
リトアニア人が侵攻した際にプスコーフに援軍を送らなかったとして、1184年にノーヴゴロド市民に公位を追われる。
1187年、フセーヴォロド大巣公がノーヴゴロドに侵攻。ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチが再びノーヴゴロド公に。
1191年、ポーロツク系諸公とともにリヴォニアに侵攻。ユーリエフ(ドイツ語名ドールパト/デルプト、現タルトゥ、エストニア)を占領する。1192年にはオデンペ(エストニア)を占領。
1196年、再びノーヴゴロド公位を追われ、トルジョークに避難した。この時もフセーヴォロド大巣公の介入で、1197年にはまたまたノーヴゴロドに呼び戻されるが、1199年にまたまた追われる。
いい加減厭になったのか、フセーヴォロド大巣公はヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチにキエフ近郊のヴィーシュゴロドを与え、ノーヴゴロドには自分の息子を派遣した。
没年は不明。