ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ

Святополк Мстиславич

ポーロツク公 князь Полоцкий (1132)
プスコーフ公 князь Псковский (1138-40)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1142-48)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1149、51-54)

生:?
没:1154.02.20

父:キエフ大公ムスティスラーフ偉大公キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:リュバーヴァ (ノーヴゴロド市長ドミートリイ・ザヴィードヴィチ)

結婚:1143
  & ? (モラヴィア人)

子:?

第9世代。モノマーシチ。ムスティスラーフ偉大公の四男。

 母親については、父の最初の妻スウェーデン王女クリスティーナだとする説と、父のふたり目の妻リュバーヴァだとする説とがある。
 弟ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの添え名が «マーチェシチ(継母の子)» であるが、これは歴史的に活躍したイジャスラーフロスティスラーフといった兄たちにとって継母の子だったことからつけられたのではないかと想像される。もしそうであるならば、そしてもしスヴャトポルク・ムスティスラーヴィチもリュバーヴァの子であるならば、同じく «マーチェシチ» という添え名をもらっても不思議はない。かれの母親はやはりクリスティーナなのではないだろうか。
 であるならば、クリスティーナの没年が1120年とされているので、スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチもそれまでに生まれていたということになろう。
 なお、ロスティスラーフよりも年長だったとする文献もある。確かにその経歴からすると、こちらが兄だとしても不思議はない。とすれば当然母親はクリスティーナであり、生年も1100年代ということになる。

 1125年、とされることが多いが、おそらくは1127年、イジャスラーフがトゥーロフを、ロスティスラーフがスモレンスクをもらう。すでにフセーヴォロドは1117年以来ノーヴゴロド公であったので、スヴャトポルクが三男だとすると、四男ということになるロスティスラーフがスモレンスクをもらっているのに何ももらわなかったのは少々不審である。やはりスヴャトポルクはロスティスラーフの弟だったのだろう。

 1132年、父が死去。
 タティーシチェフは、亡父は死に臨んでスヴャトポルク・ムスティスラーヴィチにノーヴゴロドを与えようとした、としているが、実際には後を継いだ叔父ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチに、兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの後任として、ポーロツクに派遣される。
 しかしポーロツク市民の反発で、スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチは追い出された(ポーロツク市民はヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチを公に迎え入れた)。

 1135年、オーリゴヴィチとも結んだふたりの兄フセーヴォロドイジャスラーフに従い、ユーリイ・ドルゴルーキイと戦う。

 1137年、ノーヴゴロド公位奪還のため北上するフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの遠征に従軍。しかしプスコーフに入城した段階で、ノーヴゴロドとの対立が先鋭化。フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ対ノーヴゴロドだけではなく、プスコーフ対ノーヴゴロドの対立もからみ、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはそのままプスコーフ公としてとどまった。
 1138年、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチが死ぬと、スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチが市民に乞われ後任となる。

 1140年、キエフ大公となったフセーヴォロド・オーリゴヴィチからベリョーストフを与えられる。ノーヴゴロドがスヴャトスラーヴィチとモノマーシチを交互に招いていたので、フセーヴォロド・オーリゴヴィチとしてはこれ以上余計なライバルは増やしたくないと思ったのだとされる。
 にもかかわらず、1141年(42年?)にノーヴゴロドに公として招かれた際には、フセーヴォロド・オーリゴヴィチに公位就任を認められている。フセーヴォロド・オーリゴヴィチの妻となっていた姉が口を利いてくれたのかもしれない。

 1146年にキエフ大公となった兄イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、1148年、スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチからノーヴゴロドを取り上げ、自らの息子に与える。スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチには代償としてヴラディーミル=ヴォルィンスキイが与えられた。
 このことを別に恨みもしなかったのか、1149年には兄を支援してユーリイ・ドルゴルーキイを戦っている。兄がユーリイ・ドルゴルーキイに追われてヴォルィニに逃げ込んでくると、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイを明け渡し、自らはルーツクに引いてもいる。

 1150年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとともにキエフに侵攻し、ユーリイ・ドルゴルーキイと戦ってキエフ大公位を奪回。再びヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となった。

 その後も、1151年にはペレヤスラーヴリを巡ってユーリイ・ドルゴルーキイと、1152年にはガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと、ノーヴゴロドと巡ってユーリイ・ドルゴルーキイの子ヴァシリコと、相次いで兄に従い戦闘。
 1153年、兄に従い、ヤロスラーフ・オスモムィスルと戦うためにガーリチに出征。しかしその途上で病に倒れた。

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最終更新日 07 03 2013

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