ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イズャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ

Изяслав Владимирович

クールスク公 князь Курский (-1095)
ムーロム公 князь Муромский (1095-96)

生:1077
没:1096.09.06

父:キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフキエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ
母:ギータ (イングランド王ハロルド2世)

結婚:?

子:?

第8世代。モノマーシチ。ヴラディーミル・モノマーフの次男。

 イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの生まれた頃から、大伯父イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチと祖父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ、そして次の世代ではスヴャトポルク・イジャスラーヴィチと父とが協調してキエフ・ルーシの覇権を握ってきた。
 この中で疎外されていたのがスヴャトスラーヴィチ。スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの領有していたチェルニーゴフもムーロムも父の領土となり、スヴャトスラーヴィチ兄弟はオレーグ・スヴャトスラーヴィチがトムタラカーニを支配するだけだった。

 1093年、祖父の死でスヴャトポルク・イジャスラーヴィチキエフ大公になると、スヴャトスラーヴィチに対する融和政策なのか、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチにスモレンスクが与えられた。もっとも、スモレンスクが与えられたのはほかならぬイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチだとする説もあるらしい。
 1094年にはオレーグ・スヴャトスラーヴィチがチェルニーゴフとムーロムを父から奪う。
 1095年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチと父が若干の領土再編をおこない、ノーヴゴロド公を兄ムスティスラーフ偉大公に替えてダヴィド・スヴャトスラーヴィチとした。この時ダヴィド・スヴャトスラーヴィチに代わってイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがスモレンスク公となったとも言われる。
 以上、スモレンスクについてはよくわかっておらず、多分に仮説がまじっている。いずれにせよ、1095年、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはスモレンスクを奪った(取り返した?)。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがスモレンスク公だったとすれば、この時ダヴィド・スヴャトスラーヴィチに公位から追われたということになる。
 イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはクールスクからムーロムへ侵攻。オレーグ・スヴャトスラーヴィチの代官を追ってムーロムを支配する。
 なぜムーロムに進撃した出発地がクールスクだったのか(『原初年代記』でも明記されている)。確かにムーロムの南方で地理的には問題がないが、地理で言うならばクールスクはスモレンスクとはチェルニーゴフ公領を間に挟んで遥かに遠く隔たっている。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはもともとクールスク公であって、スモレンスク公ではなかったのではないだろうか。

 1096年、父にチェルニーゴフから追われたオレーグ・スヴャトスラーヴィチが、父の支配する北東ルーシに侵攻。ムーロムがその最初の標的となった。
 オレーグ・スヴャトスラーヴィチからロストーフに退去するよう勧告を受けるが、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはこれを拒否。戦死する。
 遺体はムスティスラーフ偉大公のもとに運ばれ、ノーヴゴロドの聖ソフィヤ大聖堂に埋葬された。

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最終更新日 07 03 2013

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