ロシア学事始ロシアの君主リューリク家

モノマーシチ

リューリク家の分流の1。ここではヤロスラーフ賢公(5)の四男フセーヴォロド(6)の子孫を指す。
 本来モノマーシチ(現代ロシア語ではモノマーホヴィチ)というのは «モノマーフの子ら» という意味で、ヴラディーミル・モノマーフ(7)の息子たち、およびその子孫を指す。しかしここでは面倒なので、その父フセーヴォロド(6)と弟ロスティスラーフ(7)もモノマーシチに含めておく。これはここだけの便宜的な使い方であるのでご注意いただきたい。

 モノマーシチの始祖フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ(6)は15年間キエフ大公として一族に君臨し、その子ヴラディーミル・モノマーフ(7)もその後30年にわたってキエフ・ルーシ最大の実力者だった。さらにムスティスラーフ偉大公(8)、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ(8)が相次いでキエフ大公位を世襲。60年間にわたりキエフ・ルーシの主流派であり続けた。
 また、一時的にせよ(1132年時点)キエフ、ノーヴゴロド、ペレヤスラーヴリ、ヴォルィニ、トゥーロフ、ポーロツク、スモレンスク、ロストーフと、キエフ・ルーシのおおよそ3分の2を領有して、他の一族を圧倒していた(ちなみに残りはガーリチ系がガーリチ、スヴャトスラーヴィチがセーヴェルスカヤ・ゼムリャーとムーロム。ポーロツク系イジャスラーヴィチは領土をモノマーシチに奪われていた)。
 こうして11世紀末から12世紀初頭にかけて、モノマーシチはキエフ・ルーシ全体の覇権を握る «キエフ・ルーシ王家» となっていたと言っていいだろう。

 しかしムスティスラーフ偉大公(8)の死後、モノマーシチの権力は急速に瓦解。その最大の原因が内紛であった。
 ムスティスラーフ偉大公(8)の子と弟、つまり甥と叔父、具体的にはイジャスラーフ & ロスティスラーフのムスティスラーヴィチ兄弟(9)と、ユーリイ・ドルゴルーキイ & アンドレイ善良公のヴラディーミロヴィチ兄弟(8)とが、互いに激しく争い、モノマーシチは分裂。これにスヴャトスラーヴィチがからみ、さらに世代が代わるとムスティスラーヴィチ兄弟の子ら(10)にも内紛が起こって、かつてキエフ・ルーシの覇権を握っていたモノマーシチ一族は四分五裂状態に陥った。
 これに乗じて、スヴャトスラーヴィチキエフ大公位を奪い、ポーロツク系はポーロツクを、イジャスラーヴィチはトゥーロフを奪回。モノマーシチ一族の領有する領土も大きく減った。
 12世紀後半に入っても、モノマーシチ一族はペレヤスラーヴリ、ヴォルィニ、スモレンスク、ロストーフ(ヴラディーミル)を支配し、最大勢力であることに変わりはなかった。しかし一族意識は薄れ、ヴォルィニ系スモレンスク系ヴラディーミル系に分裂して、それぞれに勢力争いを演じて互いに対立するようになっていった。

 家系図はこちらの画像

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最終更新日 07 03 2013

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