ドブロデーヤ
Добродея
公女 княжна
生:?
没:?
父:キエフ大公ムスティスラーフ偉大公 (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:クリスティーナ (スウェーデン王インゲ1世年長王)
結婚:1122
& アレクシオス 1107-42 (皇帝イオアンネス2世・コムネノス)?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アレクシオス・コムネノスと | |||
? | マリア | アレクシオス・アクスコス |
第9世代。モノマーシチ。
彼女についてはほとんど何もわかっていない。グストィン年代記には、ただ、祖父ヴラディーミル・モノマーフが、孫娘にあたるムスティスラーフ偉大公の娘をイオアンネス・コムネノスの皇子に与えた、とだけ記されている。
ところが、ビザンティン側の史料には、ロシアからの花嫁など存在していない。
«ドブロデーヤ» という名はタティーシチェフがそう呼んでいるだけで、根拠ははっきりしない。
そもそも «ドブロデーヤ» というのはどう考えてもロシア語だが、しかしこんな名は現在も過去も存在しない(記録上は)。そこで多くの学者は、これは意味の似たギリシャ語の女性名エウプラクシアをロシア語に意訳したものだと考えている(音訳するとエヴプラクシーヤ)。
夫が誰だったかもはっきりしない。
年代記の中にははっきりと «ツァーリ»(つまりは皇帝)と呼んでいるものもあるが、この時期のビザンティン皇帝で、«ドブロデーヤ» の夫となり得る者はいない。アレクシオス1世は妻に先立っているし、そもそも1118年には死んでしまっている。イオアンネス2世の妻も1134年まで生きていた。少なくとも1122年に生まれたのちの皇帝マヌエル1世の母親は «ドブロデーヤ» ではない。
そこで浮上するのが、イオアンネス2世の長男で、当然父の後継者と目されていたアレクシオス・コムネノスである(実際1122年からは父の共同皇帝になっている)。«ドブロデーヤ» の夫候補としては最有力と言っていいだろう。
しかしこれには異説もあり、史料の中には «ドブロデーヤ» の夫をアンドロニコス・コムネノスとはっきり名指ししているものもある。とすれば、このアンドロニコス・コムネノスに最も相応しいのが、イオアンネス2世の次男、アレクシオス・コムネノスの弟のアンドロニコスであろう。
どちらもエイレーネー(ロシア語でイリーナ)と呼ばれる女性を妻としていた。このふたりのエイレーネーのどちらかが «ドブロデーヤ» であろうか?
ちなみにアレクシオスとアンドロニコスには、妻の名だけではなく没年も共通している。どちらも1142年、父の死の前年に死去。アレクシオスにもアンドロニコスにも子供がいたが、それが «ドブロデーヤ» の子であるかどうかはわからない。