ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

フョードル・イヴァーノヴィチ

Федор Иванович

エレーツ公 князь Елецкий

生:?
没:?

父:ペレムィシュリ公イヴァン・ティートヴィチカラーチェフ公ティト・ムスティスラーヴィチ
母:アグラフェーナ (リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチ)?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
イヴァン-1414エレーツ

第15世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 母親についてはよくわからないが、父の妻についてはアグラフェーナ・オーリゴヴナしか知られていないので、別に母親を求める必要もあるまい。とすると、両親の結婚が1377年とされているので、フョードル・イヴァーノヴィチの生年は1370年代末と見られる。
 父から分領としてエレーツをもらう。エレーツはリャザニ大公領であったから、おそらくこれは母方の祖父オレーグ・イヴァーノヴィチからもらったということなのだろう。その後フョードル・イヴァーノヴィチは、事実上オレーグ・イヴァーノヴィチの勤務公となる。

 ところが史料には、このような考察とは矛盾する記述が見られる。

 1380年、クリコーヴォの戦い。この時リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチはタタール側に立っていたにせよ中立を護ったにせよ、モスクワ軍の加勢には駆け付けなかった。しかし、事実上オレーグ・イヴァーノヴィチの勤務公であったにもかかわらず、フョードル・イヴァーノヴィチが手勢を引き連れて参陣。ヴラディーミル勇敢公の指揮下で奮戦したと伝えられる。
 1395年、ティムールの襲来。敗北したキプチャク・ハーンのトフタミシュは逃亡し、エレーツに逃れてきた。フョードル・イヴァーノヴィチがこれを匿った。しかしティムールはさらにエレーツにも侵攻してきて、これを焼き払う。フョードル・イヴァーノヴィチはティムールの捕虜として連れ去られる。

 1370年代末に生まれたはずのフョードル・イヴァーノヴィチが、1380年に戦場で活躍できるはずがない。息子のイヴァンは1414年にタタールの襲撃で戦死したとされているが、これまた年代的に少々無理がある。
 このように考えてみると、オレーグ・イヴァーノヴィチの孫にあたるフョードルと、オレーグ・イヴァーノヴィチの下でエレーツ公であったフョードルとは別人だったのではないかと思われる。実際、クリコーヴォの戦いやティムールとの戦いに従事したエレーツ公については「名前が知られていない」とする文献もある。原史料自体を筆者が見ていないので何とも言えないが、たとえこちらも「フョードル・イヴァーノヴィチ」であったとしても、同名異人だったと考えるべきだろう。

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最終更新日 07 03 2013

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