アンドレイ・ムスティスラーヴィチ
Андрей Мстиславич
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский
生:?
没:1339
父:カラーチェフ公ムスティスラーフ・ミハイロヴィチ (チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ)
母:?
結婚:
& エレーナ (リトアニア公ゴマンタス?)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
フョードル | |||
? | イヴァン・ボルフ |
第13世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
ムスティスラーヴィチ兄弟(ティート & アンドレイ & パンテレイモーン)の父親については、多少の混乱が見られる。ここでは Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 に従っておいたが、ムスティスラーヴィチ兄弟はムスティスラーフ・ミハイロヴィチの子ではなく孫だとする説もある(つまりムスティスラーフ・ミハイロヴィチにはムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチという子があり、その子がムスティスラーヴィチ兄弟)。
さらにアンドレイ・ムスティスラーヴィチについても、兄(弟?)とされるティートの子、即ちアンドレイ・ティートヴィチであるとする説もある。
ニーコン年代記は、ズヴェニーゴロド公アンドレイ・ティートヴィチが、リトアニア人の公ガマントの娘エレーナと結婚した、と記している。府主教フェオグノーストによれば、アンドレイ・ムスティスラーヴィチ・コゼリスキイ公がリトアニア大公ゲディミナスの妹 or 娘と結婚したらしい。この両者は同一人物であろうと考えられており、そのためアンドレイの父親についてムスティスラーフ・ミハイロヴィチ説(あるいはムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ説)とティート・ムスティスラーヴィチ説のふたつがある。
いずれにせよ、種々考え合わせてみると、アンドレイ・ムスティスラーヴィチは世代的にムスティスラーフ・ミハイロヴィチの子であるよりも孫である方が相応しいとは言えるだろう。
同時に、その分領についても諸説が出てくるわけだ。
父からズヴェニーゴロドをもらったとも言われるが、実はアンドレイ・ムスティスラーヴィチ自身の分領については不明。かれの子孫がズヴェニーゴロドを分領としていたことから、おそらくアンドレイ・ムスティスラーヴィチがズヴェニーゴロドを領有していたのだろう、と想像されているにすぎない。
いかなるいきさつがあったかはこれまた不明だが、甥のヴァシーリイ・パンテレイモーノヴィチに殺される。
記録上息子はフョードルだけだが、学者の中にはこのほかにイヴァン・ボルフという息子もいて、これがボルホフスキイ公家の祖である、とする者もある。