ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ
Ярослав Юрьевич
ピンスク公 князь Пинский (1182頃)
生:?
没:?
父:トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ (ヴォルィニ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチ)
母:アンナ (グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ)
結婚:
& エフフロシーニヤ公女 -1202 (トゥーロフ公ボリース・ユーリエヴィチ)
子:?
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
? | スヴャトスラーフ | ||
? | ヴャチェスラーフ | クレツク |
第10世代。イジャスラーヴィチ。
両親の結婚は1144年とされる。当然ユーリエヴィチ兄弟の誕生はそれ以降。ヤロスラーフ・ユーリエヴィチは一般的に三男と考えられているので、1150年頃と見ていいだろう。
1157年、父はトゥーロフ公となり、ようやく自前の分領を得た。
父の没年は1167年か1168年と思われる。跡を継いだのがイヴァン・ユーリエヴィチかスヴャトポルク・ユーリエヴィチかはよくわからないが、いずれにせよヤロスラーフ・ユーリエヴィチはこの時(かしばらく後に)、クレツクをもらったとする説がある。
1183年、グロドノ公ムスティスラーフ・フセヴォローディチ、弟のドゥブローヴィツァ公グレーブ・ユーリエヴィチ等とともに、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチに従って対ポーロヴェツ人遠征。
この時点ではピンスク公であったようだ。
没年も不明。1184年とする史料を見たことがあるが、1190年とする説もあるらしい。いずれにせよ、1190年には弟(と思われる)グレーブ・ユーリエヴィチがトゥーロフ公となっているので、この時までには死んでいたと考えられている。