ヤロスラーフ・ヤロポールチチ
Ярослав Ярополчич
ブレスト公 князь Брестский
生:?
没:1102.08.11
父:ヴォルィニ公ヤロポルク・イジャスラーヴィチ (キエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:クーニグンデ (オルラミュンデ伯オットー)?
結婚:?
子:?
第8世代。イジャスラーヴィチ。
両親の結婚は1070年代半ばとも言われる。そうでなくとも父の生年は1050年頃と見られることから、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチの生年は1070年代後半と見ておいていいだろう。
父の死は1086年。まだ10歳にもならなかったはずのヤロスラーフ・スヴャトポールチチは、その後どうしたのだろう。叔父スヴャトポルク・イジャスラーヴィチにでも引き取られたか、あるいは母方の実家(ドイツ)ででも育てられたか。
1093年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがキエフ大公になる。この年、また、従兄弟のロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。あるいはこの時、ヤロスラーフ・ヤロポールチチはブレスト公とされたのではないか。
1099年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがガーリチのロスティスラーヴィチ兄弟と戦った時、「ふたりのヤロポールチチ」が従っていたという。おそらくヤロスラーフと弟ヴャチェスラーフのことだろう。
1100年、ヴィティチェヴォの諸公会議でヴラディーミル=ヴォルィンスキイはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチの子ヤロスラーフ・スヴャトポールチチが獲得した。
あるいはこれに伴って領土を巡る問題でも持ち上がったのだろうか、1101年、ヤロスラーフ・ヤロポールチチはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチに攻められ、ブレストに立てこもるが屈服。キエフに連行されて監禁された。府主教の介入で釈放される。
1102年、叔父のもとから逃亡。しかしヤロスラーフ・スヴャトポールチチに追われ、ポーランドとの国境で捕らえられた。キエフに連行され、再び監禁される。
そのまま獄死した。