ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチ

Вячеслав Ярославич

クレツク公 князь Клечский (1127頃)

生:?
没:?

父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチキエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ
母:? (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公

結婚:?

子:?

第9世代。イジャスラーヴィチ。

 典拠とした Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 ではヤロスラーフ・スヴャトポールチチの子とされているが、ムスティスラーフ・スヴャトポールチチの子としている史料もある(当然その場合、父称はヤロスラーヴィチではなくムスティスラーヴィチ)。
 もしムスティスラーフ・スヴャトポールチチの子であれば、ムスティスラーフ・スヴャトポールチチが1099年に死んでいるので、生年は当然その前ということになろう。祖父の生年が1050年なので、ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチの誕生はどんなに早くても1080年代後半、おそらくは1090年代だろう。とすると、父が死んだ時にはまだ幼児。ヤロスラーフ・スヴャトポールチチにでも養われていて、そのためにヤロスラーフ・スヴャトポールチチの子だとする説が生まれたか?
 しかしヤロスラーフ・スヴャトポールチチムスティスラーフ偉大公の娘との間の子であれば、両親の結婚は1112年とされているので、ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチの生年は当然その後。1118年に両親は離婚しているので、それ以前ということになる。
 どちらにしても、ヤロスラーフ・スヴャトポールチチは1118年にヴラディーミル=ヴォルィンスキイを失っているので、ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチは自前の分領を手に入れる可能性を持たないまま成長したことになる。

 クレツク/クレチスク Клечск は、ミンスク近郊の小都市。のちにはトゥーロフ公領に属するが、この時点でトゥーロフ公領ポーロツク公領のどちらに属していたかは知らない。
 ここはおそらく叔父ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチか、その弟のイジャスラーフ・スヴャトポールチチが分領としていたと思われる。
 あるいはヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチは、当時イジャスラーヴィチ一族で唯一分領を持っていたと思われるブリャチスラーフ & イジャスラーフの兄弟に引き取られ、その死後クレツクを相続したということか。
 あるいは、ミンスクは1119年にムスティスラーフ偉大公の父ヴラディーミル・モノマーフが奪っている。ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチがムスティスラーフ偉大公の孫だとすれば、曾祖父からクレツクをもらったということだろうか。

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最終更新日 07 03 2013

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