スヴャトポルク・ユーリエヴィチ
Святополк Юрьевич
トゥーロフ公 князь Туровский ?
生:?
没:1190
父:トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ (ヴォルィニ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチ)
母:アンナ (グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ)
結婚:?
子:?
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
? | ヴラディーミル | ピンスク | |
? | ロスティスラーフ | ピンスク |
第10世代。イジャスラーヴィチ。
両親の結婚は1144年とされる。当然ユーリエヴィチ兄弟の誕生はそれ以降。スヴャトポルク・ユーリエヴィチは一般的に次男と考えられているので、1140年代後半と見ていいだろう。しかしそれと矛盾するのが、1157年の出来事。これはどう考えても10歳前後のガキにできることではない。スヴャトポルク違いか(もっとも当時スヴャトポルクはスヴャトポルク・ユーリエヴィチ以外にはいなかったと思われる)、スヴャトポルク・ユーリエヴィチの生年がもっと前だったのか(とすると母親はアンナ・フセーヴォロドヴナではなく、父はその前に別の女性と結婚していたということか?)。
1157年、父はトゥーロフ公となり、ようやく自前の分領を得た。
1157年、イヴァン・ベルラードニク捕縛のため、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルによりキエフ大公ユーリイ・ドルゴルーキイのもとに派遣される。
ヤロスラーフ・オスモムィスルは仇敵イヴァン・ベルラードニクの捕縛と引き渡しを諸公に依頼していた。ユーリイ・ドルゴルーキイもこれに同意し、かつては自分に仕えていたイヴァン・ベルラードニクを捕らえたのだが、これに教会関係者が介入。ユーリイ・ドルゴルーキイはこれに屈し、イヴァン・ベルラードニクをスヴャトポルク・ユーリエヴィチには引き渡さず、スーズダリに送った。
スヴャトポルク・ユーリエヴィチは結局使命を果たせず、手ぶらで帰還した。
また1162年には諸公に従い、スルーツクを奪ったヴラディーミル・マーチェシチと戦う。
こうして見てみると、スヴャトポルク・ユーリエヴィチはイヴァン・ユーリエヴィチ以上に長男らしく思える。一般的にはイヴァン・ユーリエヴィチが長男、スヴャトポルク・ユーリエヴィチが次男とされているが、逆なのでは? もちろん愚兄賢弟ということもあり得るが。
父は1167年か1168年には死んだものと思われる。跡を継いだのは当然長男で、一般的にはイヴァン・ユーリエヴィチとされているのだが、イヴァン・ユーリエヴィチの没年も不明。一説にはイヴァン・ユーリエヴィチは父の跡を襲ってすぐに死去し、スヴャトポルク・ユーリエヴィチがトゥーロフ=ピンスク公になったともされる。
なお、もしトゥーロフ公位を継いでいないとすると(イヴァン・ユーリエヴィチが公位を継いで、しかもその後も長生きしたとすると)、スヴャトポルク・ユーリエヴィチはどこかを分領としてもらっていてもいいはずだが、特にどこを分領として支配したとかいう説はないようだ。終生分領が与えられなかったということもあり得ないではないが、弟たちも1182年頃に分領を得ていると思われるだけに、やはりスヴャトポルク・ユーリエヴィチがトゥーロフ公位を(父を継いでか兄を継いでかはともかく)継いでいたと考えるべきだろう。実際、この後のかれの行動を見ると、やはりトゥーロフ=ピンスクの主権者らしく思われる。
1168年、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに従い、対ポーロヴェツ人遠征に従軍。
1170年にムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがアンドレイ・ボゴリューブスキイによってキエフを追われた際には、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを支援。
なお、この前後、妹(?)アンナがオーヴルチ公リューリク・ロスティスラーヴィチと結婚。リューリク・ロスティスラーヴィチはこの時期キエフの覇権を握っていたスモレンスク系のロスティスラーヴィチ兄弟の主役であり、1190年代までは南ルーシ最大の実力者のひとりでもあった。スヴャトポルク・ユーリエヴィチ個人にとってと言うより、ユーリエヴィチ兄弟にとって非常に有利な姻戚関係となったことだろう。
ヤロスラーフ・オスモムィスルの私事にも関与させられる。
1173年、ヤロスラーフ・オスモムィスルが妻オリガ(アンドレイ・ボゴリューブスキイの妹)と嫡男ヴラディーミルを追放した際には(政治的な理由はない)、スヴャトポルク・ユーリエヴィチが間に立ち(と言うよりはヤロスラーフ・オスモムィスルを諌めて)、オリガ・ユーリエヴナに帰国するよう促している。
1183年にヴラディーミル・ヤロスラーヴィチが父と対立してトゥーロフに逃れてきた際には、これを匿っている。
この時代は諸公がキエフ大公位を巡って争い、かつてまがりなりにも存在した大公位継承のルールは形骸化していた。キエフの北隣に位置するという地理的な利点からしても、スヴャトポルク・ユーリエヴィチ自身が大公位を狙ったとしてもおかしくはない。しかし実際にはスヴャトポルク・ユーリエヴィチはキエフには無関心だったようだ。
もっともトゥーロフ=ピンスク自体がこの頃は衰退し、しかも西隣にはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチやロマーン偉大公、ヤロスラーフ・オスモムィスルという有力者がおり、スヴャトポルク・ユーリエヴィチは自らが権力を握るよりも、むしろヴォルィニやガーリチに従属することを選んだようだ。