ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ

Ростислав Мстиславич

ブレスト公 князь Брестский

生:?
没:1093.10.01

父:ノーヴゴロト公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチキエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
?ロマーン
?リューリク

第8世代。イジャスラーヴィチ。

 父の生年が、はっきりしないものの、おそらく1040年代後半。とすると、1069年に父が死んだ時には、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはまだ幼年だったはず。母親が誰かも不明だが、母方の実家で育てられたのか、あるいは叔父たちに引き取られたのか。

 ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの分領はブレストと言われる。おそらくこんにちのブレスト=リトフスクであろう。ここはこの頃、ヴォルィニに属していた。そして叔父たちのうち、ヤロポルク・イジャスラーヴィチがまさにヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公であった(トゥーロフも領有していた)。
 ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ヤロポルク・イジャスラーヴィチの世話になっていて、かれからブレストを分領としてもらったのかもしれない。

 そのヤロポルク・イジャスラーヴィチは1086年に死去。遺領のうち、トゥーロフはもうひとりの叔父スヴャトポルク・イジャスラーヴィチが継いでいるが、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイはダヴィド・イーゴレヴィチに与えられた。
 あるいはこの時にブレストがダヴィド・イーゴレヴィチに与えられた領土から切り離されて、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに与えられたのかもしれない。生年が1060年代末だとすれば、ちょうどロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが成年に達した頃でもある。

 とりあえずわかっているのは、原初年代記に記されている記事だけ。それによると、1093年10月01日、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死に、キエフのデシャティンナヤ教会に埋葬された。
 埋葬場所を考えると当時はキエフに住んでいたのか? 当時のキエフ大公は、ほかならぬ叔父のスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ。分領ブレストではなく、叔父のもとで暮らしていたのかもしれない。

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最終更新日 07 03 2013

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