ロスティスラーフ・グレーボヴィチ
Ростислав Глебович
ステパニ公・ピンスク公 князь Степаньский и Пинский
生:?
没:?
父:トゥーロフ公グレーブ・ユーリエヴィチ (トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ)
母:? (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | グレーブ | ステパニ |
第11世代。イジャスラーヴィチ。
ただし父親は必ずしもはっきりしない。アレクサンドル・グレーボヴィチの子とするものもある(その場合は第12世代)。スヴャトポルク・ユーリエヴィチの子とする説もあるが、スヴャトポルク・ユーリエヴィチの子のロスティスラーフはロスティスラーフ・グレーボヴィチとは別人だとする説もある。
1228年、ルーツク公イヴァン・ムスティスラーヴィチ(ムスティスラーフ聾唖公の子)の死で、ロスティスラーフ・グレーボヴィチはチャルトルィースク(ヴォルィニにある小都市)を占領。しかしすぐにダニイール・ロマーノヴィチに追われた。これに対する報復として、ロスティスラーフ・グレーボヴィチは、キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ、チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ、ポーロヴェツ人のコテャン・ハーンから成る同盟軍を組織して、ヴォルィニに侵攻した。しかしコテャン・ハーンが脱落し、報復は失敗に終わった。