ロシア学事始ロシアの君主リューリク家人名録系図人名一覧

リューリク家人名録

イズャスラーフ・ヤロスラーヴィチ

Изяслав Ярославич

トゥーロフ公 князь Туровский (-1052)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1052-54)
キエフ大公 великий князь Киевский (1054-67、69-73、77-78)

生:1024
没:1078.10.03−ネジャーティナ・ニーヴァ(チェルニーゴフ近郊)

父:キエフ大公ヤロスラーフ賢公 (キエフ大公ヴラディーミル偉大公
母:インゲゲルド (スウェーデン王オロフ課税王)

結婚:1044?
  & ゲルトルーダ/エリザヴェータ 1025?-1108(ポーランド王ミェシュコ2世)

子:

生没年
ゲルトルーダ・ミェシュコヴナと
1ムスティスラーフ-1069ノーヴゴロド
2スヴャトポルク1050-1113ノーヴゴロド
3ヤロポルク-1086トゥーロフ

第6世代。洗礼名ドミートリー。ヤロスラーフ賢公の次男。
 イジャスラーヴィチ(トゥーロフ系)の始祖。

 1043年頃、ポーランド王女と政略結婚。ちょうどこの頃、叔母マリア・ドブロニェガがカジミェシュ再建王(ゲルトルーダの兄)の妃となっているので、あるいはこのふたつの結婚はペアで行われたのかもしれない(原初年代記はマリア・ドブロニェガとカジミェシュ再建王については述べているものの、イジャスラーフとゲルトルーダの結婚については言及していない)。

 父により、トゥーロフを分領としてもらう。1052年、兄ヴラディーミルの死で、ノーヴゴロド公に。

 1054年、父の死で、キエフ大公位を継いだ。
 原初年代記によれば、父はその死に際してルーシを子らに分割する。キエフをイジャスラーフに、チェルニーゴフスヴャトスラーフに、ペレヤスラーヴリフセーヴォロドに、ヴラディーミル(=ヴォルィンスキイ)をイーゴリに、そしてスモレンスクヴャチェスラーフに。
 1057年にヴャチェスラーフが死ぬと、イーゴリをヴラディーミル=ヴォルィンスキイからスモレンスクに移す。しかしそのイーゴリも1060年には死んだ。
 以後10年以上にわたり、イジャスラーフ、スヴャトスラーフフセーヴォロドのヤロスラーヴィチ3兄弟は、協調してキエフ・ルーシを支配した。

 この «三頭体制» における領土分割の実態はよくわからない。しかしのちの時代には、ヤロスラーヴィチ兄弟はルーシを領土的にもほぼ等しく分割していたと思われる。
 少なくともスヴャトスラーフが領有したのはチェルニーゴフだけではなく、いわゆる «セーヴェルスカヤ・ゼムリャー(のちのチェルニーゴフ公領とノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領)» 全体と、さらにトムタラカーニ、あるいはムーロム=リャザニをも含んでいたものと思われる(ムーロム=リャザニは元来ロストーフに属していたようで、この時代にチェルニーゴフに従属するようになっていたかどうか不明)。
 フセーヴォロドにしても、その分領がペレヤスラーヴリだけではあまりに狭小にすぎる。のちにその子孫が代々相続していくロストーフと、おそらくはイーゴリ死後のスモレンスクフセーヴォロドが領有していただろうと考えられる。
 イジャスラーフ自身、おそらく1054年のことと思われるが、長男ムスティスラーフノーヴゴロド公としている。また残るトゥーロフヴラディーミル=ヴォルィンスキイガーリチ(のちの)はイジャスラーフの領有するところであったろう。
 このような分割が1054年の時点で成立していたのか、それともその後徐々にイジャスラーフが弟たちに割譲する形で成立していったのか、はっきりしない。しかしすでに1060年代半ばにはスヴャトスラーフが長男をトムタラカーニに、フセーヴォロドが長男をロストーフに派遣している(1060年代半ばというのが、この頃これらの土地が割譲されたからなのか、それとも息子たちが成人したからなのか、どちらとも決めがたい)。
 こうして、言わば別格のポーロツクを除いて、北東部はフセーヴォロド、南東部はスヴャトスラーフ、そして南西部はイジャスラーフが領有するルーシ分割体制が成立した。
 なお、イーゴリヴャチェスラーフについては、1054年の時点ではまだ幼少であったためだろう(もっとも、まだ20歳にはなっていなかっただろうが、16歳程度にはなっていたはず)、学者の中には、スモレンスクにせよヴラディーミル=ヴォルィンスキイにせよ、与えられたのはのちに成立する公領の範囲全体ではなく、その一部でしかなかったと考える者がいる。
 またヴャチェスラーフイーゴリの遺児はいずれも幼く、イジャスラーフはかれらに特段領土を与えなかった。もっとも、理由は幼年ではあり得ない。ノーヴゴロド公とした長男ムスティスラーフも1050年頃の生まれだからだ。この後の行動も考えあわせてみると、要するに甥たちには領土を分け与えたくなかったのだろう。

 1056年にセルジューク人がアルメニアに侵攻した際には、ビザンティン帝国に援軍を派遣している。

 ノーヴゴロドにはオストロミールを代官として派遣し、統治させる。1057年頃、オストロミールをチューディ人遠征に派遣するが、失敗。オストロミールは戦死した。
 1058年にもイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはバルト系民族への遠征を行い、領土を拡張した。

 ヤロスラーヴィチ3兄弟による初期15年間の支配は、比較的平穏であった。これはひとつにはまだ後の時代のような一族間の内紛が起こらなかったこともあるが(そもそも一族の数自体が少なかった)、もうひとつには、ステップの遊牧民族に大きな変化が起きていたからである。セルジューク人の拡大もそのひとつであると言えよう。
 リューリコヴィチによるキエフ征服以来キエフ・ルーシを悩ませていたペチェネーグ人は、1036年を最後にキエフに対する攻撃をしていない。これは、東方から現れた新たな遊牧民族との戦いに追われ、やがては敗北して西方に去っていったためである(1046年には皇帝コンスタンティノス9世・モノマコスがブルガリアへの植民を認めている)。
 新たに東方から登場した民族とはポーロヴェツ人であり、その後かれらは13世紀にモンゴルによって駆逐されるまで、キエフ・ルーシを悩ませ続けることになる。そのポーロヴェツ人がヴォルガ流域に移住を開始したのは、1054年頃のこととされている。
 1055年にはテュルク系の遊牧民族がペレヤスラーヴリを襲撃したが、この中に早くもポーロヴェツ人が含まれていたらしい。その後も何度か系統のはっきりしないテュルク系の民族との戦いがあった。

 この時代のひとつの成果として、«ヤロスラーヴィチたちのプラヴダ Правда Ярославичей» がある。これはひとことで言えば法典である。すでに父が、おそらく慣習法をまとめて成文化していたと考えられ、これが «ヤロスラーフのプラヴダ Правда Ярослава» と呼ばれている。ヤロスラーヴィチ3兄弟はこれにいくつかの条項を付け加えた。これらにさらに後の時代に新たな条文が付け加えられ、古代ルーシの法典 «ルースカヤ・プラヴダ Русская Правда» として集大成されていく。

 1064年、兄ヴラディーミルの遺児ロスティスラーフがトムタラカーニに侵攻。ここは次弟スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの分領であり、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの争いがしばらく続いた(1066年にロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが死んだ)。
 この一連の騒動にはイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは関与していない。しかしこれは、ヤロスラーヴィチ3兄弟が権力を独占して甥たちを疎外しているこの体制が必然的にもたらしたものである。

 1065年、ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがプスコーフに侵攻。
 1067年(66年?)、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチはノーヴゴロドに侵攻し、イジャスラーフの息子ムスティスラーフを追う。ヤロスラーヴィチ3兄弟は北上。ミンスクを占領し、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを激しい戦いの末打ち破る。
 ポーロツクに逃げ帰ったフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを、ヤロスラーヴィチ3兄弟はスモレンスクに呼び出す。身の安全は保障したが、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがスモレンスクに出頭すると、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチが前言を翻してこれを捕らえた。
 フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチをキエフに監禁すると同時に、スヴャトスラーフの子グレーブ・スヴャトスラーヴィチノーヴゴロド公として派遣した。
 ノーヴゴロドはイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの領土であったはずだが、なぜ自分の息子ではなく甥を派遣したのだろう。

 1068年(67年?)、ポーロヴェツ人がキエフに襲来。既述のようにポーロヴェツ人との接触はすでにあったが、キエフに侵攻されたのはこれが初めて。
 ヤロスラーヴィチ3兄弟は迎撃するが、アリタ河畔の戦いで敗北を喫する。イジャスラーフとフセーヴォロドはキエフに逃げ帰った(スヴャトスラーフはチェルニーゴフへ)。
 キエフ市民はポーロヴェツ人に対する徹底抗戦を主張するが、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはなぜかこれに反対。不満を爆発させたキエフ市民が蜂起し、監獄を襲ってフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを解放する。イジャスラーフとフセーヴォロドは逃亡し、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチキエフ大公になった。
 イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはポーランドに逃亡。1069年、甥にあたるポーランド王ボレスワフ2世鷹揚王とともにキエフに侵攻する。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチは迎え撃つが、ベールゴロド近郊で軍を棄て、ポーロツクに逃げ帰った。
 キエフを奪回したイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、フセスラーフ派を虐殺。さらにフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチからポーロツクを奪い、自分の息子ムスティスラーフに、その死後はスヴャトポルクに与える。この時、ペチェールスキイ修道院の聖アントーニーをキエフから追放。聖アントーニーはフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを支持していた。
 1071年、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがポーロツクを奪回する。しかし一旦は敗北したスヴャトポルク・イジャスラーヴィチが、再びフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチを追ってポーロツクを奪い返した。
 1072年、改めてポーロツクをフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチに奪回される。

 1073年、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチを語らいイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチに反抗。この反抗の理由ははっきりしないが、年代記の伝えるところによると、領土拡大を望んだスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが、「イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチと語らってオレたちに害をなそうとしている。先んじなければ追われるだけだ」とフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチを唆したのだという。
 1072年にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがポーロツクを奪還したについては、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチが絡んでいたとも言われる。あるいは実際に両者間には何らかの協力関係があったのかもしれない。
 キエフを追われたイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、再びポーランドに逃亡する。しかし今回はボレスワフ鷹揚王は支援を断った。当たり前である。ボレスワフ鷹揚王にとってはイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは父方の叔母の夫であり母方の従兄弟であるが、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチは義理の父(妻の父)なのである(もっとも、ボレスワフ鷹揚王の妻の出自は必ずしもはっきりしない)。

 ボレスワフ鷹揚王に支援を断られたイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、マインツに赴いて皇帝ハインリヒ4世に泣きつく(妻の母がロートリンゲン出身なので、その伝手を頼ったのか?)。ハインリヒ4世の使節は1075年にキエフに到着するが、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチに買収され、結局何も成果を挙げないまま帰国。それどころかハインリヒ4世もスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチに籠絡され、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチへの支援を打ち切った。
 1075年、教皇グレゴリウス7世が教書を発表し、俗人による聖職者叙任も聖職売買にあたるとして、ハインリヒ4世とのいわゆる «叙任権闘争» の幕を開けた。ハインリヒ4世に支援を断られたイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、グレゴリウス7世のもとに息子ヤロポルクを派遣。グレゴリウス7世はイジャスラーフ・ヤロスラーヴィチへの支援を約束し、ボレスワフ鷹揚王にこれを命じた。もっともこれにどの程度の意味があったかは定かではない(ちなみにグレゴリウス7世は1076年にボレスワフ鷹揚王に王位を授けている。当時のポーランド王は教皇から王冠を授けられない限りは «クラクフ公»。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは妻とともにその戴冠式に参列したらしい)。
 イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、ハインリヒ4世にも、グレゴリウス7世にも、支援の見返りとして臣従を誓っている。理屈から言えば、前者への臣従はキエフ・ルーシを神聖ローマ皇帝の勢力圏と認めることであり、後者への臣従はキエフ・ルーシを東方オルトドクス教会ではなく西方カトリック教会に組み込むことになる(東西教会の分裂は1053年)。

 1076年、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはボレスワフ鷹揚王の支援を得てルーシに侵攻。ヴォルィニで末弟フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチと対峙した。しかし戦を交えることなく和解し、1077年、キエフ大公に返り咲いた。
 イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはルーシ南西部の領土を確保したが、フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチにはスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの領土だったルーシ南東部の領有を認めたようだ。この結果、甥のスヴャトスラーヴィチ兄弟には、長男グレーブ・スヴャトスラーヴィチの支配するノーヴゴロドのほかには、飛び地のトムタラカーニが認められただけとなった。ましてやその他の甥、ボリース・ヴャチェスラーヴィチダヴィド・イーゴレヴィチは、まったく領土を与えられなかった。
 イジャスラーフとフセーヴォロドが共同してスヴャトスラーヴィチ兄弟その他を疎外する体制は次の世代にも引き継がれ、リューリコヴィチの内紛を継続させるひとつの要因となったと言っていいだろう。

 甥たちの不満が爆発するきっかけとなったのは、1078年のグレーブ・スヴャトスラーヴィチの死である。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは、後任のノーヴゴロド公に自分の息子スヴャトポルクを据えた。
 ただでさえ少ない領土がさらに削られる結果となったスヴャトスラーヴィチ兄弟がこれに反発し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチグレーブの弟)が、スヴャトスラーヴィチ兄弟同様に疎外されていたボリース・ヴャチェスラーヴィチ(弟ヴャチェスラーフの子)と同盟。チェルニーゴフに侵攻してこれを占領した。
 フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチがキエフに逃亡してくると、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチは軍を興し、共同でチェルニーゴフに侵攻。近郊での激突で、ボリース・ヴャチェスラーヴィチを戦死させたものの、イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ自身も倒れた。
 キエフのデシャティンナヤ教会に葬られる。

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最終更新日 07 03 2013

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