イヴァン・ユーリエヴィチ
Иван Юрьевич
トゥーロフ公 князь Туровский (1167-90、95-1207)
生:?
没:1207.04.19
父:トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ (ヴォルィニ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチ)
母:アンナ (グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ)
結婚:?
子:?
第10世代。イジャスラーヴィチ。
両親の結婚は1144年とされる。当然、ユーリエヴィチ兄弟の誕生はそれ以降。イヴァン・ユーリエヴィチは一般的に長男と考えられているので、1140年代後半の生まれと見ていいだろう。
1157年、父はトゥーロフ公となり、ようやく自前の分領を得た。
父の没年は不明だが、1167年以降、おそらく1167年か1168年かと思われる。イヴァン・ユーリエヴィチがトゥーロフ=ピンスクを継承。
この時弟たちに分領が与えられたかどうかもわからないが、弟たちはおそらく当時まだ20歳にもなっていなかったのではないかと想像され、せいぜい次弟のスヴャトポルク・ユーリエヴィチにどこかが与えられたという程度ではないだろうか。
没年も不明。Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は何に依ったか上掲の年月日を挙げている。
状況はわからないが、1190年、一旦トゥーロフから追われ、弟のグレーブ・ユーリエヴィチが替わってトゥーロフ公となっている。しかし1195年、グレーブ・ユーリエヴィチの死でイヴァン・ユーリエヴィチがトゥーロフ公に返り咲いた。
1207年に、チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公を支援してキエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチと戦ったとされる。あるいはこの戦いで戦死した、ということか。
しかしこれには異説もある。それによると、イヴァン・ユーリエヴィチは父の跡を継いですぐに死去。トゥーロフ公位は次弟のスヴャトポルク・ユーリエヴィチが継いだ。実際、1207年の戦いに従軍したトゥーロフ公はスヴャトポルク・ユーリエヴィチだとする文献もある(かれも1207年の時点では死んでいたはずだが)。