ロマーン・セミョーノヴィチ
Роман Семенович Новосильский
ノヴォシーリ公 князь Новосильский
オドーエフ公 князь Одоевский
生:?
没:?
父:グルーホフ公セミョーン・ミハイロヴィチ или セミョーン・アレクサンドロヴィチ
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | ヴァシーリイ | ベリョーフ | |
2 | レフ | ヴォロトィンスク | |
セミョーン | ノヴォシーリ | ||
3 | ユーリイ | オドーエフ |
第15世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
実は曾祖父セミョーン・ミハイロヴィチ(グルーホフ系の始祖)からロマーン・セミョーノヴィチまで、系図がはっきりしない。
家系図には、ロマーンはセミョーンの子であったとされているが、このセミョーンとはグルーホフ系の始祖となったセミョーン・ミハイロヴィチのことである。しかし1246年に父を亡くしたセミョーン・ミハイロヴィチと、1300年代後半に活躍したロマーンとが父子関係にあったとは考えられない。このため、ロマーンの父については諸説がある。この点、詳細はセミョーン・ミハイロヴィチを参照のこと。
1352年、グルーホフにてペストが流行。分領の主都をノヴォシーリに移す。
1370年頃には、リトアニア大公アルギルダスの娘婿であった弟イヴァン・セミョーノヴィチの領土(カルーガを含む)を攻略。
1375年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイに従いトヴェーリに侵攻。
1380年のクリコーヴォの戦いにも従軍したらしい。
1385年、タタール軍がノヴォシーリを攻略。ロマーン・セミョーノヴィチは荒廃したノヴォシーリを棄て、オドーエフを主都とする(そのため、オドーエフスキイ家の祖とされることがある)。