ヤーコフ・ザハーリエヴィチ・コーシュキン
Яков Захарьевич Кошкин-Захарьин/-Захарьев
ボヤーリン боярин (1479?-)
生:?
没:1510/11
父:ザハーリイ・イヴァーノヴィチ・コーシュキン -1461 (イヴァン・フョードロヴィチ・コーシュキン)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
1 | ヴァシーリイ | -1528 | |
2 | ピョートル | -1533 | |
3 | イヴァン |
年代記等では、«ヤーコフ・ザハーリイン» (場合によっては «ヤーコフ・ザハーリエフ»)と呼ばれている。当時はまだ父称と姓との形式があいまいだったためだろう(100年後のことだが、ミーナの子クジマーも «クジマー・ミーニチ» ではなく «クジマー・ミーニン» と呼ばれている)。
1485年、ノーヴゴロド代官としてノーヴゴロド軍を率いてイヴァン大帝のトヴェーリ遠征に従軍。これが年代記におけるヤーコフ・ザハーリエヴィチの初出である。1493年頃までノーヴゴロド代官であったようだ。
ノーヴゴロドは1479年にモスクワに併合されたばかりであり、おそらくヤーコフ・ザハーリエヴィチは «モスクワ化» 政策をかなり強引に推進したものと想像される。すなわち、かれに反発したノーヴゴロド市民が1488年にかれに対する陰謀を企んでいる。これをあばいたヤーコフ・ザハーリエヴィチは大勢のノーヴゴロド市民を処刑、あるいはモスクワ大公領各地に流刑にした。またノーヴゴロドに広まりつつあった «異端» の摘発にも力を注いだ。
1492年にはノーヴゴロド代官として、リトアニア大公アレクサンドラスとモスクワ大公女エレーナ・イヴァーノヴナの結婚話にもかかわり、デンマークとの外交交渉にも従事した。
ノーヴゴロドの «異端» は «ジドーヴストヴユシチエ» と呼ばれた。単生論を否定したらしい。1470年にミハイール・オレリコヴィチの随身としてノーヴゴロドにやって来た宣教師スハーリイによって広められた。ジドーヴストヴユシチエは政治的にはモスクワ寄りで、修道院の世俗財産放棄を主張したことからイヴァン大帝からも好意的に受け止められ、モスクワのノーヴゴロド併合でモスクワ宮廷内にも多くの同調者を生んだ。しかしこれに反発するノーヴゴロド大主教ゲンナーディイが1488年に教会会議を開かせ、ここでジドーヴストヴユシチエを異端と断罪させた。しかしその後もジドーヴストヴユシチエはモスクワ宮廷内に影響力を持ち続けた。
1500年にリトアニアとの戦争が再開すると、総司令官に任命されたムハンメド=アミンの下で主力軍を率いた。ムハンメド=アミンは名目上の存在であったから、事実上ヤーコフ・ザハーリエヴィチが最高司令官であったと言える。ブリャンスク、プティーヴリ、ドロゴブージュなど、南西に大きく領土を拡大。リトアニア領ルーシの東部(セーヴェルスカヤ・ゼムリャー)を征服した。
1508年、オールシャ攻囲戦に従事。