ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ウィレム2世

Willem Frederik George Lodewijk, Виллем

オランダ王・ルクセンブルク大公 Koning der Nerderlanden en Groothertog van Luxemburg (1840-)

生:1792.11.25/12.06−ハーグ(オランダ)
没:1849.03.05/03.17(享年56)−ティルブルフ(オランダ)

父:ウィレム1世 1772-1843 オランダ王(1815-40)
母:ヴィルヘルミーナ 1774-1837 (プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)

結婚:1816−サンクト・ペテルブルグ
  & アンナ・パーヴロヴナ大公女 1795-1865 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ

子:

生没年結婚相手
アンナ・パーヴロヴナと
1ウィレム(オランダ王3世)1817-90ヴュルテンベルク王女ゾフィーア
ヴァルデック=ピルモント侯女エマ
2アレクサンデル1818-48
3ヘンドリク1820-79アマーリエ・フォン・ザクセン=ヴァイマール
プロイセン公女マリーア
4エルンスト・カシミール1822
5ソフィア1824-97ザクセン=ヴァイマール大公カール・アレクサンダー

オランダ王ウィレム1世の第一子(長男)。カルヴァン派。
 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770-1840)の甥で、初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797-1888)と皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナの従兄弟。

オラニエ家の家名の由来は、南仏、アヴィニョンの北にあるローヌ河畔の都市オランジュ Orange。シャロン家の支配の下、ここの支配者はオランジュ公 prince d'Orange を名乗った。16世紀、シャロン家を継いだのがナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世。
 ナッサウ家は12世紀に遡る北西ドイツの弱小貴族。13世紀末にハプスブルク家に代わってドイツ王を輩出したが、それも弱小貴族なればこそ。以後複数の家系に分裂。結局生き残ったのはナッサウ=ディレンブルク系、ナッサウ=ディーツ系、そしてナッサウ=ヴァイルブルク系の3つだけ。
 ナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世/オランジュ公ギヨーム1世(1533-84)は、ドイツ貴族・フランス貴族であったが、オランダ貴族でもあった。オランダ独立の口火を切った英雄として、現オランダ国歌にも歌われているウィレム1世沈黙公である。かれの子孫もオランダの指導者として引き続き大きな影響力を持ったが、フランス語のオランジュがオランダ語読みでオラニエ Oranje となった。
 ウィレム1世沈黙公の曾孫ウィレム3世(1650-1702)はイギリス王ウィリアム3世となったが、かれの死でナッサウ=ディレンブルク系が断絶。後を継いでオランダの指導者となったのが、遠縁のナッサウ=ディーツ系であった。

ちなみに、オランダはスイスと同様、君主を持たない共和国であった(実際には貴族やブルジョワの寡頭政治)。歴代のオラニエ家当主も、ホラント州やユトレヒト州など有力な州の総督となることで、オランダ全体に対する指導力を発揮した。ウィレム3世/ウィリアム3世も、イギリスでは王さまだったが、オランダでは単なる州総督のひとりだったにすぎない(もっともひとりでほとんどの州の総督を兼任していたが)。
 しかしこうしてオラニエ家が代々有力な州(しかも複数)の総督を世襲すると、これに対する反発も高まる。1766年にウィレム5世(1748-1806)がオランダのすべての州の世襲総督となると、反発が爆発。反対派(«愛国派» と呼ばれた)との内戦が勃発した。

 ウィレムの誕生時はフランス革命でヨーロッパ中が激動の渦に巻き込まれた時期。祖父オラニエ公・オランダ総督ウィレム5世は敵対する «愛国派» を支援するフランス革命政府に宣戦を布告したが、1794年に革命軍と愛国派がオランダに侵攻。1795年、イギリスへの亡命を余儀なくされ、オランダにはバタヴィア共和国が成立した。
 父はプロイセン軍に勤務し、革命フランス軍、ナポレオン軍と戦う。
 ウィレムはベルリンで育てられ、オックスフォードで学んだ後、1811年よりアーサー・ウェルズリー(のちのウェリントン公)の下でイベリア半島での対仏戦に従軍。ワーテルローの戦いでもオランダ軍を率いて活躍した。

 1815年、オランダはヴィーン会議で列強により王国に格上げされ、父が初代の王となった。ついでにオーストリア領ネーデルランド(ベルギー)の併合、ルクセンブルク大公国との同君連合も認められた。
 しかしベルギーは1830年に叛乱。1831年、ベルギーは王国として独立し、ルクセンブルクを実効支配した。
 父はこれを認めず、列強の仲裁も無視してベルギーと戦い、ルクセンブルク奪回に固執した。1839年、ロンドン条約によりベルギーの独立を認めたが、ルクセンブルクは奪い返した。

 ウィレムは滞英時代、摂政公ジョージ(のちのイギリス王ジョージ4世)に気に入られ、その一人娘シャーロットの婿候補に挙げられた。もし実現していれば、いずれはウィレムは妻の権利でイギリス王ウィリアム4世になっていたかもしれない。しかしシャーロットは当時ザクセン=コーブルク家のレーオポルト(アンナ・フョードロヴナ大公妃の弟)に恋しており、この話はお流れになった。
 1816年にアンナ・パーヴロヴナ大公女と結婚したウィレムは、新たにオランダ領となったベルギーの首都ブリュッセルに住んでいた。ウィレムにはバイセクシャルとの噂もあるが、アンナ・パーヴロヴナ大公女との夫婦関係は良好だったらしい。
 ブリュッセルではウィレムは人気があった。ウィレムもベルギーに対して好意的で、1830年のベルギー革命に際しては父とベルギーとの関係を取り持とうと努力している。父はこれを拒絶し、代わりにウィレムをオランダ軍司令官としてベルギーの «叛乱» 鎮圧に派遣。しかしフランス軍の介入で、ウィレムはオランダに追い返された。

 父の家父長的支配は国民から嫌われていたが、ベルギー独立がまたひとつの契機となり、1840年、ついに父は退位。ウィレムが後を継いで第2代オランダ王として即位した。

 君主としてのウィレム2世は、政治信条的には父同様の保守主義者であったようだが、父よりは穏健で、また政治にもあまり口出しをしなかった。ブリュッセルでの生活経験からか、ベルギーやルクセンブルクにも好意的で、関係修復に努めた。激動の60年間を経て、オランダがひさびさに平和と安定を享受した時代だったと言ってもいいだろう。ウィレムの行った最大の政治的功績は、1848年、二月革命の影響で認めた自由主義憲法の発布だろう。
 他方、絵画蒐集狂で、多数の美術品を買い漁る。死後は多額の借金を遺し、その支払いのために未亡人となったアンナ・パーヴロヴナ大公女が弟の皇帝ニコライ1世に泣きついたほどだった。

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最終更新日 07 03 2013

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