ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ
Владимир Александрович
大公 великий князь
生:1847.04.10/04.22−サンクト・ペテルブルグ
没:1909.02.04/02.17(享年61)−サンクト・ペテルブルグ
父:皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
母:皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナ 1824-80 (ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ2世)
結婚:1874−サンクト・ペテルブルグ
& マリーヤ・パーヴロヴナ 1854-1920 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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マリーヤ・パーヴロヴナと | |||
1 | アレクサンドル | 1875-77 | − |
2 | キリール | 1876-1938 | エディンバラ公女ヴィクトリア・メリタ |
3 | ボリース | 1877-1943 | ジナイーダ・ラシェフスカヤ |
4 | アンドレイ | 1879-1956 | マティルダ・クシェシニスカ |
5 | エレーナ | 1882-1957 | ギリシャ王子ニコラオス |
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの第四子(三男)。
皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの弟。
記録に残る限り、ロマーノフ家で最初のスラヴ系の名前の持ち主(ミハイール・フョードロヴィチの兄にボリースというのがいたらしいが)。
結婚後、サンクト・ペテルブルグ市内に «ヴラディーミルスキイ宮殿» を建てて住む。
祖父ニコライ1世が三男でありながら皇位を継いだように、自らもやがては皇位を継ぐことを幼少から夢想していたらしい。
特に長兄ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公が早くから将来を嘱望されながらも若くして早世すると、次兄アレクサンドル3世にはライバル心を燃やした。もともとアレクサンドル3世自身に皇位に対する野心がなかった上、アレクサンドル3世がニコライ・アレクサンドロヴィチ大公と比較されて愚鈍と見られていたことも、なおさらヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の野心を燃え上がらせただろう。
火に油を注いだのが妻のマリーヤ・パーヴロヴナ大公妃で、夫婦そろっていずれは皇帝にならんと野心をたぎらせていたらしい。このためアレクサンドル3世夫妻とは仲が悪く、甥ニコライ2世に対しても高圧的で、ニコライ2世も時々愚痴をこぼしている。
だからと言ってヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公が政治や軍事の面で特段の活躍をしたわけではない。むしろ、次弟アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公とともにしばしばパリで豪遊して憂さを晴らしていた。
もっとも、ニコライ2世の萎縮するような反応に気付いたヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公が、自ら政治への口出しを控えたのだ、との見方もある。
狩り好きで、美術品の蒐集に凝っていて、グルメで知られていた。
1876年以来、叔母マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女の後を継いで芸術アカデミー総裁(1876-1909)。絵画の蒐集や画家への援助を積極的に行った。イリヤー・レーピン(1844-1930)のかの有名な『ヴォルガの船曳人夫』(1870)も、ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公のために描かれた。
露土戦争(1877-78)に従軍。
1881年、兄アレクサンドル3世の即位で叔父たちが要職から追放されると、ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公はニコライ・ニコラーエヴィチ «スタールシイ» 大公に代わってサンクト・ペテルブルグ軍管区司令官(1881-1905)。近衛軍総司令官(1884-1905)。
皇位を巡ってアレクサンドル3世と対立していたとはいえ(と言うより、実際はヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の独り相撲だったわけだが)、やはりアレクサンドル3世としては実弟を信頼し、陸軍の重鎮となることを期待したのだろう。
1905年10月、次男(事実上の長男)キリール・ヴラディーミロヴィチ大公が皇帝の許可を得ずに結婚。このスキャンダルにより、ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公は退役した。
しかし、時あたかも第一革命が最高潮に達した時期だった。数日前にロシア全土でゼネストが始まり、数日後には労働者代表ソヴィエトが創設される。ニコライ2世は革命運動の徹底弾圧か妥協かで苦悩しており、ロシアの君主制にとって死活的な時期に職務を投げ出したとの感は否めない(ちなみに後任の近衛兵総司令官・サンクト・ペテルブルグ軍管区司令官は従兄弟のニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラードシイ» 大公)。
なお、しばしばかれの子孫はヴラディーミロヴィチ Владимировичи と呼ばれる。これはヴラディーミロヴィチ Владимирович という父称の複数形で(カタカナでは区別不能だが)、本来的にはヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の子供たちを指す。しかしリューリク家をリューリコヴィチ Рюриковичи というように、慣習的に父称の複数形でその子孫を指すことがある。