ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ロスティスラーフ・アレクサンドロヴィチ

Ровтислав Александрович

公 князь императорской крови

生:1902.11.11/11.24−クリミア
没:1978.07.31(享年75)−カンヌ(フランス)

父:アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
母:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ

結婚①:1928−シカゴ(1944離婚)
  & アレクサンドラ・パーヴロヴナ公女 1905-2006 (パーヴェル・パーヴロヴィチ・ゴリーツィン公)

結婚②:1945−シカゴ(1951離婚)
  & アリス 1923-96 (アルヴィン・アイルケン)

結婚③:1954−ロンドン
  & ヘドヴィヒ 1905-97 (カール・フォン・シャピュイ)
       バークリー・エヴァラード・フォーリー・ゲイジ夫人

子:

生没年結婚相手
アレクサンドラ・パーヴロヴナと
1ロスティスラーフ1938-990ステファナ・クック
クリスティア・イプセン
アリス・アイルケンと
2ニコライ1945-パメラ・クジンコウスキ

ミハイロヴィチ。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の第六子(五男)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの甥。

 1917年、二月革命はクリミアの父の所領アイ=トドルで迎える。一時は臨時政府により自宅軟禁状態に置かれた。1918年にはボリシェヴィキーに逮捕される危機もあったが、ドイツ軍、白衛軍により救われる。
 1918年暮れ、第一次世界大戦が終結。パリで開催される講和会議に出席するため、父が出国した。この当時はまだボリシェヴィキー政権もいずれは崩壊するものと思われており、誰も国外亡命など考えてはおらず、そのままクリミアに残留した。
 しかし1919年に入ると急速に情勢は悪化。白衛軍は赤軍に押され、ボリシェヴィキーの勢力は南ロシアに及んできた。このため1919年4月、イギリスの軍艦で、祖母の皇太后マリーヤ・フョードロヴナ、母、兄弟、さらにはニコラーエヴィチ一族とともに亡命した。

 いったんは母とともにロンドンに住んだが、やがてひとりアメリカに移住。

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最終更新日 07 03 2013

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