ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ

Прасковья Иоанновна

ツァレーヴナ царевна

生:1694
没:1731(享年37?)

父:ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ 1666-96
母:ツァリーツァ・プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ 1664-1723 (フョードル・ペトローヴィチ・サルティコーフ)

結婚:1719
  & イヴァン・イリイーチ 1680-1730 (イリヤー・ミハイロヴィチ・ドミートリエフ=マモーノフ)

子:なし

ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチの第五子(五女)。
 女帝アンナ・イヴァーノヴナの妹。皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの姪。

 幼少時は母とともにモスクワ郊外のイズマイロヴォで過ごした。1708年、サンクト・ペテルブルグにお引越し。
 幼少から病弱であったらしい。1710年に次姉アンナ・イヴァーノヴナが、1716年には長姉エカテリーナ・イヴァーノヴナが叔父ピョートル大帝の命によって外国人と結婚させられていたが、プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナにはその手の話はまわってこなかったらしい。
 1719年、ピョートル大帝の許可を得て、ツァレーヴナ・プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナは一介のロシア貴族にすぎないイヴァン・ドミートリエフ=マモーノフと結婚。ただし、この結婚は1719年ではなく、1723年の母の死後のことだとも言われる。

 プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナとイヴァン・ドミートリエフ=マモーノフとの結婚は、ロマーノフ家のプリンセスがロシア貴族と結婚した最初。そもそもロマーノフ家のプリンセスが誰かと結婚すること自体がここ数年の出来事であり、リューリク家の時代から数えてもイヴァン大帝の時代以来、絶えてなかったこと(相手が誰であれ)。
 なおこの結婚は «貴賤結婚» と言われることがあるが、当時のロシア語にはまだ «мезальянс»(フランス語で «身分違いの結婚»)とか «морганатический»(ドイツ語経由のラテン語で «貴賤結婚の»)といった言葉すら存在しなかった。当然 «貴賤結婚» という概念自体がロシアでは必ずしも一般的ではなく、少なくとも法的には貴賤結婚は規定されていなかった。少なくともロマーノフ家のプリンセスがロシア貴族と結婚することは、そもそもロマーノフ家の娘が誰かと結婚するということそれ自体と比べてそれほど大きな問題ではなかった。
 だいたいロマーノフ家の娘が結婚をすれば、その地位がどうなるのか(皇帝の姪なのか、それとも一介のロシア貴族の妻なのか)、皇位継承権はどうするのか、といった問題が派生するが、ピョートル大帝はそこら辺には無頓着だったように思われる。

 イヴァン・ドミートリエフ=マモーノフは歴代皇帝や権力者から重用され、1730年に義姉アンナ・イヴァーノヴナが即位すると、宮廷内で重きをなしたが、その直後に死去。
 プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナもわずか1年後に後を追った。
 モスクワのヴォズネセンスキイ修道院に葬られている(ここに埋葬された最後)。

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最終更新日 07 03 2013

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