ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ピョートル2世・アレクセーエヴィチ

Петр Алексеевич

大公 великий князь
ロシア皇帝 император Всероссийский (1727-)

生:1715.10.12/10.23−サンクト・ペテルブルグ
没:1730.01.18-19/01.29-30(享年14)−モスクワ

父:ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチ 1690-1718 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ
母:ツァレーヴナ・ソフィヤ・シャルロッタ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフ)

婚約①:1727
  & マリーヤ・アレクサンドロヴナ公女 1711-29 (アレクサンドル・ダニーロヴィチ・メーンシコフ公

婚約②:1729
  & エカテリーナ・アレクセーエヴナ公女 1712-45 (アレクセイ・グリゴーリエヴィチ・ドルゴルーキイ公

結婚:なし

子:なし

ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの第二子(長男)。

 ロマーノフ家で初となるツァーリ(ピョートル・アレクセーエヴィチの誕生当時は祖父はまだ皇帝を名乗っていなかった)の孫息子。リューリコヴィチのモスクワ大公時代を含めても、1483年にイヴァン3世大帝に孫ドミートリイ・イヴァーノヴィチが誕生して以来230年振り。
 即位前の称号についてはよくわからない(ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女を参照)。

 生後10日で母を亡くす。以後、祖父ピョートル大帝からも父からも無視され、母方の係累もロシアになく、あるいは姉ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女と同じく叔母たち(祖父ピョートル大帝の娘たち)とともに育てられたのかもしれない。

 1718年、父が皇位継承権を放棄し、その直後に死去。ピョートル・アレクセーエヴィチ大公は孤児となる。

 父が皇位継承権を放棄したのに伴い、祖父は自分の息子(ピョートル・アレクセーエヴィチ大公にとっては叔父)ツァレーヴィチ・ピョートル・ペトローヴィチを後継者に指名する。当時ロシアで慣習として確立していた継承法に従えば、ツァーリの長男のひとり息子であるピョートル・アレクセーエヴィチ大公にこそ継承権があるはずだったが、これは無視された。
 ピョートル・ペトローヴィチは1719年に死去。同年生まれたもうひとりのピョートル・ペトローヴィチも1723年に死去。これにより、ピョートル大帝の男系子孫はピョートル・アレクセーエヴィチ大公だけとなった。
 しかしピョートル大帝は、1722年に「皇帝自身が後継者を指名する」という新しい(と言うか成文法としては初の)皇位継承法を制定。ピョートル大帝自身は後継者を指名しなかったが、このような継承法を制定したという事実それ自体が、旧い慣習法に従えば正統かつ唯一の継承者であるピョートル・アレクセーエヴィチ大公への皇位継承を考えていなかった証左であると言えるかもしれない。

 1725年、祖父が死去。ピョートル大帝の改革はロシアを、改革推進派と、これに反発して旧来の伝統への回帰を主張する勢力とに二分した。«反改革派» はピョートル・アレクセーエヴィチ大公を皇位継承者に推したてる。慣習的な長子継承法に基く正統性を有するという点で有利だったが、当時ピョートル・アレクセーエヴィチ大公はまだ9歳。結局ピョートル・アレクセーエヴィチ大公には継祖母にあたるエカテリーナ1世(1684-1727)が即位した。

 エカテリーナ1世の治下においてもピョートル・アレクセーエヴィチ大公は基本的に無視されていた。ただし1726年、アレクセイ・ドルゴルーキイ公(«保守派»)が養育係に任命されたらしい。

 そしてエカテリーナ1世の死に際して、再び皇位継承の問題が持ち上がるとともに注目を浴びる。«改革派» と «保守派» の綱引きの果てに、アレクサンドル・メーンシコフ公(«改革派»)がその娘と結婚させることを条件にピョートル・アレクセーエヴィチ大公の即位に賛成。1727年、11歳のピョートル・アレクセーエヴィチ大公は皇帝に即位した。

 ピョートル大帝の側近中の側近で、エカテリーナ1世の治世に最高権力を行使したアレクサンドル・メーンシコフ公が、その権力を温存しようとまず最初にしたのは、自身を大元帥に任命させること(最初の大元帥)。これにより軍の最高指揮権を握ったアレクサンドル・メーンシコフ公は、さらにピョートル2世個人をも自分の支配下に置くため、自宅に引き取り、正式に娘マリーヤ・アレクサンドロヴナ公女と婚約させる。ピョートル2世の養育係には、祖父の側近のひとりで «改革派» アンドレイ・オステルマン男爵が任命された。
 と同時に、いまやピョートル2世に自身の権力保持を賭けるアレクサンドル・メーンシコフ公は、ほかの皇位継承権者を極力排除する(エカテリーナ1世の長女アンナ・ペトローヴナとその夫カール・フリードリヒをシュレスヴィヒ=ホルシュタインに追い出す)。
 一方、公式にはピョートル2世の成人(16)までは、エカテリーナ1世以来国政の最高機関となった最高枢密院が政務を執ることになった。

 ピョートル2世の遊び仲間には、もうひとりの叔母エリザヴェータ・ペトローヴナ(のちの女帝、当時18)やイヴァン・ドルゴルーキイ公(かつての養育係の子、当時19)がいた。
 ピョートル2世の方はアレクサンドル・メーンシコフ公を嫌い、あるいはアレクセイ・ドルゴルーキイ公らにそそのかされたのかもしれないが、ある日突然メーンシコフ邸を出て冬宮へ。翌日、アレクサンドル・メーンシコフ公を逮捕し、流刑に処した(トボーリスク県ベリョーゾフ)。まったく突然かつ思いがけない «宮廷クーデタ» であった。ガキだったからこそ可能だったのかもしれない。

 アレクサンドル・メーンシコフ公を追放したとはいえ、ピョートル2世はまだ12歳の少年。しかも、アレクセイ・ドルゴルーキー公やアンドレイ・オステルマン男爵がどのように養育係としての役割を果たしたのかわからないが、狩に夢中で政務にも勉強にもまったく関心を向けない享楽的な少年であった。権力の行使はおろか、儀礼的な役割すらしばしば放擲し、姉ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女が代行することもあったらしい。もっとも祖父も似たようなものだったので、これだけを取り上げてピョートル2世が皇帝として失格だったとは言えまい。そもそもまだローティーンの子供だったのだ。
 いずれにせよ、こうして生じた権力の空白を埋めようと、ドルゴルーキイ一族、特にアレクセイ・グリゴーリエヴィチ公とその従兄弟ヴァシーリイ・ルキーチ公、またゴリーツィン一族、特にドミートリイ・ミハイロヴィチ公とミハイール・ミハイロヴィチ公の兄弟などが、権力の座を巡って激しく争った。これにアンドレイ・オステルマン男爵やらアレクサンドル・ブトゥルリーンなども加わり、政権は完全に麻痺。

ドルゴルーキイ家はリューリコヴィチ。公の称号を有する。守旧派の代表格で、ピョートル2世時代には我が世の春を謳歌したが、女帝アンナ・イヴァーノヴナ時代にはことごとく流刑に処された。
 アレクセイ・グリゴーリエヴィチ公(-1734)、セルゲイ・グリゴーリエヴィチ公(-1739)、イヴァン・グリゴーリエヴィチ公(1680-1739)の兄弟は、アレクセイ公がピョートル2世の養育係だったこともあって強力な派閥を形成。ほかのドルゴルーキイ一族を引き立てた。
 ヴァシーリー・ルキーチ公(1670-1739)はその従兄弟。ピョートル大帝の下で外交官として台頭。しかしその死後は守旧派にまわる。
 ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ公(1667-1746)はピョートル大帝の下で軍人として活躍したが、ツァレーヴィチ・アレクセイを支持し、失脚。1724年に復活し、ペルシャ遠征軍司令官(1726-28)。元帥(1728)。ツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナの名付け親で、彼女が女帝となったことで再び権力の中枢に返り咲いた。
 ミハイール・ヴラディーミロヴィチ公(1667-1750)はその弟。兄同様ピョートル大帝の信頼を得たが、ツァレーヴィチ・アレクセイを支持し、失脚。1724年に復活し、シベリア知事(1724-28)。女帝アンナ・イヴァーノヴナにより流刑されたが、エリザヴェータ・ペトローヴナの即位で復活。

ゴリーツィン家はゲディミノヴィチ。公の称号を有する。こちらも守旧派の代表格。中でもドミートリイ・ミハイロヴィチ公の活躍が著しい。
 ミハイール・ミハイロヴィチ公(1675-1730)はその弟。兄に続いてピョートル大帝に仕えるようになり、軍人として活躍。元帥(1725)。

 1728年、戴冠式を行うためモスクワに赴いたピョートル2世は、そのままサンクト・ペテルブルグには戻らなかった。これはピョートル2世自身の意思とも、ピョートル大帝の政策から決別しようとする旧い大貴族たちの意向だとも言われる。

ピョートル大帝は1713年にサンクト・ペテルブルグに遷都し、ペトロパーヴロフスカヤ要塞の中にペトロパーヴロフスキイ大聖堂を建立したが、1724年の皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナの戴冠式は、伝統に則ってモスクワのウスペンスキイ大聖堂でおこなっている。ピョートル2世も、これに倣ってウスペンスキイ大聖堂で戴冠式を挙げた。以後、再び首都がサンクト・ペテルブルグに戻った後も、歴代皇帝は戴冠式をモスクワのウスペンスキイ大聖堂でおこなっている。

 エカテリーナ1世時代に始まった減税や行政の簡素化などは、ピョートル大帝時代に国民に課せられた重荷を緩和することになった。1728年にはプレオブラジェンスキイ・プリカーズも廃止。ピョートル大帝時代にフョードル・ロモダーノフスキイ公の下で «反改革派» の弾圧に悪名を馳せたプレオブラジェンスキイ・プリカーズの廃止は、ほとんどの国民から歓迎された。
 しかしそれは同時に、ロシアの国力を著しく減退させることにもつながった。特に、ピョートル2世自身が政務に関心を持たず、大貴族たちが権力争いを続けて中央政府が麻痺状態に陥った結果、ロシア政府は国内外の課題に対処する能力を急速に喪失していった。

 1729年、ピョートル2世はアレクセイ・ドルゴルーキイ公の娘エカテリーナ・アレクセーエヴナ公女と婚約。翌年1月18日に結婚式を挙げることを決めた。ところが天然痘に倒れ、結婚式の当日(正確には翌日の午前0時過ぎ)、死去。
 死の床で、アレクセイ・ドルゴルーキイ公は娘エカテリーナ公女を後継者として指名するようピョートル2世に要求したと言われる(その従兄弟ヴァシーリー・ドルゴルーキイ公は遺書を偽造しようとした)。
 ピョートル2世の死で、ロマーノフ家の男子は絶滅した。

 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた(アルハンゲリスキイ大聖堂に埋葬された皇帝はピョートル2世が最後となり、以後は基本的にロマーノフ家の人間はペトロパーヴロフスキイ大聖堂に葬られる)。

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最終更新日 07 03 2013

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