ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ピョートル・ゲオルギエヴィチ・オリデンブルグスキイ

Konstantin Friedrich Peter, Петр Георгиевич

オルデンブルクのプリンス Prinz von Oldenburg/принц Ольденбургский

生:1812.08.14/08.26−ヤロスラーヴリ
没:1881.05.02/05.14(享年68)−サンクト・ペテルブルグ

父:ゲオルク 1784-1812 (オルデンブルク公ペーター1世)
母:エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女 1788-1819 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ

結婚:1837−ビーブリヒ(ナッサウ、ドイツ)
  & テレーゼ・ヴィルヘルミーネ・フリデリーケ 1815-71 (ナッサウ公ヴィルヘルム)

子:

生没年結婚相手
テレーゼと
1アレクサンドラ1838-1900ニコライ・ニコラーエヴィチ大公
2ニコラウス/ニコライ1840-96マリア・ブラゼル
3ツェツィーリエ1842-43
4アレクサンダー/アレクサンドル1844-1932ロイヒテンベルク公女ウジェニー・ド・ボーアルネ
5カテリーネ/エカテリーナ1846-66
6ゲオルク/ゲオルギイ1848-71
7コンスタンティン/コンスタンティーン1850-1906アグラフェーナ・ジャパリーゼ
8テレーゼ/テレージヤ1852-83ロイヒテンベルク公ジョルジュ・ド・ボーアルネ

ドイツの領邦君主の次男ゲオルクの第二子(次男)。ルター派。
 皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチニコライ1世・パーヴロヴィチの甥で、アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの従兄弟。

 誕生の直後に父を亡くす。母がアレクサンドル1世の寵愛する妹だったこともあり、ペーターと兄アレクサンダーはアレクサンドル1世(実際には皇太后マリーヤ・フョードロヴナ)の庇護の下に置かれる。

 1816年、母がヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世と再婚。これに伴い、ペーターもシュトゥットガルトへ。
 1818年に母が死ぬと、祖父のオルデンブルク公ペーター1世(1755-1829)に引き取られた。当時はオルデンブルクの跡取りである伯父パウル・フリードリヒ・アウグスト(1783-1853)に男子がなかったことから、アレクサンダーとペーターの兄弟は公位継承順位第2位・第3位のプリンスとして教育を受けた(ちなみに学習科目の中にはロシア語も含まれていた)。

 1827年、伯父パウルに嫡男ニコラウス・フリードリヒ・ペーター(ペーター2世)が誕生。1829年、祖父ペーター1世と兄アレクサンダーが相次いで死去。伯父パウルがオルデンブルク大公となり、ペーターは大公位継承順位第2位となった。しかし継承順位第2位とはいえ、パウルには継承順位第1位の嫡男がおり、いずれ成長の暁には子供が生まれ、その直系の子孫に大公位が継承されることになる(実際そうなった)。つまりペーターはいずれは «厄介叔父» になるべき立場にあったわけだ。
 ペーターは叔父ニコライ1世に招かれたのをこれ幸いとサンクト・ペテルブルグへ。

 ペーター(ピョートル・ゲオルギエヴィチ)は陸軍大佐としてプレオブラジェンスキイ連隊に勤務する。しかし1834年には中将として早くも退役する。
 以後政界に転じ、元老院議員(1834-38)、国家評議会議員(1836-)、自由経済協会会長(1841-59)を歴任。
 従兄弟アレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公(のちの皇帝)とは親密な関係にあった。

 すでに退役したばかりの1830年代から慈善事業、特に教育活動に積極的にかかわる。退役前にも軍事教育機関評議会員に任命されていた。
 その後退役したピョートル・ゲオルギエヴィチは、軍の近代化、官僚機構の整備のためには法律教育が不可欠であるとして、私費でサンクト・ペテルブルク市内に法律学校を創設。1835年の開校式には皇帝ニコライ1世も参列した。
 さらに孤児施設、女子教育機関、貧民救済機関、病院などの設立、維持・管理、改革などの事業にも従事。あまりの忙しさに、1838年には自ら願い出て元老院議員を辞任したほどだった。
 1844年には «皇妃マリーヤの諸施設の官庁» の女子教育機関を統括する部局を委ねられ、事実上 «女子教育大臣» となる。特にこの方面では皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナとも密接に協力し、1858年にはマリインスコエ女子学校を創設(寄宿制ではなく通学制として初の女子教育機関)。女子教育機関の拡充に伴い不足が顕著になってきた女性教師を補充するため、1844年にはアレクサンドロフスコエ女子学校に教師コースを設け、その後種々の女性教師養成コースを数多くの教育機関に設けた。

 国家評議会聖俗務局長(1842-)として、アレクサンドル2世治下の農奴解放と司法改革にも積極的にかかわった。

 ピョートル・ゲオルギエヴィチは芸術家でもあり、1834年にはプーシュキン『スペードの女王』をフランス語に訳している。また1842年には最初のピアノ・コンチェルトを作曲している。1857年にはまだ現役として踊っていたマリウス・プティパ(1818-1910)のためにバレエ音楽を作曲。この中の1曲は、いまでも演奏されているらしい。

 私生活面では、妃テレーゼ(ロシアではテレージヤ・ヴァシーリエヴナ・ナッサウスカヤ)との結婚生活がうまく行き、一家は質素でも幸福な家庭生活を営んだようだ。

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最終更新日 07 03 2013

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