ピョートル・アントーノヴィチ
Петр Антонович
ブラウンシュヴァイクのプリンス Prinz von Braunschweig
生:1745.03.19/03.30−ホルモゴールィ
没:1798.01.19/01.30(享年53)−ホルセンス(デンマーク)
父:アントン・ウルリヒ 1714-74 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世)
母:アンナ・レオポリドヴナ 1718-46 (メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レーオポルト)
結婚:なし
子:なし
アントン・ウルリヒとアンナ・レオポリドヴナの第四子(次男)。皇帝イヴァン6世・アントーノヴィチの弟。正教徒。
母アンナ・レオポリドヴナは女帝アンナ・イヴァーノヴナの姪。
父方の大伯母エリーザベト・クリスティーネ(1691-1750)は神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)の妃。別の大伯母シャルロッテ・クリスティーネはツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの妃。
また父方の叔母エリーザベト・クリスティーネ(1715-97)はプロイセン王フリードリヒ2世大王(1712-86)の妃。別の叔母ユリアーナ・マリーア(1729-96)はデンマーク王フレデリク5世(1723-66)の妃。
一家は1741年以来、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにより国内流刑されており、この措置は1780年まで解けなかった。
ピョートル・アントーノヴィチが1歳の時に母が死去。以後、恵まれない環境の中、父がピョートル・アントーノヴィチたちを養育した。教育も父から授けられた。ただし、父はルター派だったが、ピョートル・アントーノヴィチたち姉弟は正教徒として育てられている。
幼少時に受けた外傷がもとで脊椎がまがっていたと言われる。
1780年、デンマーク王太后ユリアーナ・マリーアと女帝エカテリーナ2世の合意により、3人の姉弟とともにデンマークへの出国が認められた。
デンマークでは王族として遇され、ホルセンス(ユラン半島)に家を与えられた。エカテリーナ2世からもひとり当たり8,000ルーブリの年金が支払われた。
しかしピョートル・アントーノヴィチたちはロシア語しか話せず、正教徒でもあり(家に小さな正教会が建てられた)、係累とて家族以外になく、おそらく厳しい生活を送ったものと思われる。
ホルセンスに埋葬されている。