ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルグスキイ

Peter Friedrich Georg, Петр Александрович

オルデンブルクのプリンス Prinz von Oldenburg/принц Ольденбургский

生:1868.11.09/11.21−サンクト・ペテルブルグ
没:1924.03.11(享年56)−カンヌ(フランス)

父:アレクサンダー・フォン・オルデンブルク 1844-1932
母:ウジェニー 1845-1925 (ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボーアルネ & マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女

結婚①:1901−ガッチナ(1915離婚)
  & オリガ・アレクサンドロヴナ大公女 1882-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ

結婚②:1922
  & オリガ・ヴラディーミロヴナ・ラティコヴァ=ロジュノヴァ 1878-1929 (セレブリャコーフ未亡人)

子:なし

ドイツの領邦君主の一族アレクサンドル・ペトローヴィチの唯一の子(長男)。ルター派。

 ロマーノフ家の末端に連なる者として、幼少より軍人教育を受ける。最終的には陸軍少将。

 プライベートでは、ギャンブルにはまっていた。毎晩のようにギャンブルに明け暮れ、多額の借金を背負い、父親からも何度も訓戒を受けたがやめられなかったようだ。

 1900年、社交界にデビューするオリガ・アレクサンドロヴナ大公女のエスコート役を仰せつかった。以後、舞踏会や劇場にしばしばオリガ・アレクサンドロヴナ大公女をエスコートする。
 1901年、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女にプロポーズ。オリガ・アレクサンドロヴナ大公女が承諾し、すんなりと結婚までこぎつけた。
 しかしピョートル・アレクサンドロヴィチがオリガ・アレクサンドロヴナ大公女を本心でどう思っていたのかは不明。と言うのも、かれは同性愛者だと考えられており、事実それまで女性に関心を示したことがなかった。オリガ・アレクサンドロヴナ大公女に自らプロポーズしたのも、母親の野心に押されたためだとも言われる。
 なお、ふたりはサンクト・ペテルブルグ市内に広壮な家を借りて住んだ。

 当然、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女との結婚はうまく行かなかった。ふたりの間には肉体関係がなかったとすら言われた。
 1903年、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女とニコライ・クリコーフスキイとの関係が始まる。ピョートル・アレクサンドロヴィチは離婚には反対したものの、ニコライ・クリコーフスキイを自分の副官に任命し、同居することを認めた。

 1904年には軍務でツァールスコエ・セローに。ついでに家族を挙げて(ニコライ・クリコーフスキイも)ツァールスコエ・セローに引っ越し。

 革命後は国外に逃亡し、フランスに居住。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 07 03 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system