オリガ・ヴァレリヤーノヴナ・カルノーヴィチ
Ольга Валерьяновна Карнович
ホーエンフェルゼン伯妃 Gräfin von Hohenfelsen (1904-)
パーレイ公妃 княгиня Палей (1915-)
生:1865.12.02/12.14
没:1929.11.02(享年63)−パリ(フランス)
父:ヴァレリヤーン・グリゴーリエヴィチ・カルノーヴィチ -1891
母:オリガ・ヴァシーリエヴナ・メスザロス
結婚①:1884
& エーリフ・アウグスティーノヴィチ・ピストリコルス/エーリク・ゲルハルト・フォン・ピストルコルス 1853-1935
結婚②:1902−リヴォルノ
& パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 1860-1919 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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エーリフ・フォン・ピストリコルスと | |||
1 | アレクサンドル | 1885-1944 | アレクサンドラ・タネーエヴァ |
2 | オリガ | 1886-1887 | − |
3 | オリガ | 1888-1963 | アレクサンダー・フォン・クロイツ伯 |
セルゲイ・クダーシェフ | |||
4 | マリアンナ | 1890-1976 | ピョートル・ドゥルノヴォー |
クリストフ・フォン・デルフェルデン | |||
ツァルネカウ伯ニコライ | |||
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公と | |||
1 | ヴラディーミル | 1897-1918 | − |
2 | イリーナ | 1903-90 | フョードル・アレクサンドロヴィチ公 |
ユベール・モンブリソン | |||
3 | ナターリヤ | 1905-81 | リュシアン・ルロン |
ジョン・チャップマン・ウィルスン |
ロシア貴族。正教徒。
オリガ・カルノーヴィチの父は国有資産省の高級官僚。
カルノーヴィチ家はハンガリー出身でザポロージエ・コサックに加わり、親露派として歴代皇帝に接近。ウクライナを離れてサンクト・ペテルブルグに活動の拠点を移す。
最初の夫エーリフ・ピストリコルスは騎兵軍人で、最終的には中将。
1893年頃からパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公との関係が始まる。当時は不倫以上に離婚が忌み嫌われたため、オリガ・カルノーヴィチもエーリフ・ピストリコルスとの離婚には苦労した。しかし最終的に離婚を勝ち取ると、外国へ。そしてイタリアで、皇帝の許可を得ずにパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公と結婚。このためニコライ2世の怒りを買い、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公は国外追放処分とされ、ふたりはパリに住んだ。
1904年、バイエルン摂政ルイトポルト公(1821-1912)からホーエンフェルゼン伯妃の称号が与えられる。
第一次世界大戦の勃発にともないロシアへの帰国が許され、ツァールスコエ・セローに住む。1915年、ニコライ2世からパーレイ公妃の称号が与えられる。
1918年春にヴラディーミルが、夏にパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公がボリシェヴィキーに捕らえられると、子供たちをフィンランドに出国させ、自身はペトログラードにとどまって夫と子の釈放を勝ち取ろうと奔走する。最終的には1920年にフィンランドに逃亡して子供たちと合流。
フランスで亡命生活を送った。