オリガ・ニコラーエヴナ
Ольга Николаевна, Olga Nikolajewna
大公女 великая княжна
ヴュルテンベルク王妃 Königin von Württemberg (1864-91)
生:1822.08.30/09.11−サンクト・ペテルブルグ
没:1892.10.18/10.30(享年70)−フリードリヒスハーフェン(ヴュルテンベルク、ドイツ)
父:皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ 1796-1855
母:皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ 1798-1860 (プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)
結婚:1846−ペテルゴーフ
& カール1世 1823-91 ヴュルテンベルク王(1864-91)
子:なし
皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチの第三子(次女)。
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの妹。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797-1888)の姪。
1843年、ヘッセン=ルンペンハイム方伯家の跡取りフリードリヒ・ヴィルヘルムがオリガ・ニコラーエヴナ大公女の花婿候補としてサンクト・ペテルブルグを訪問するが、代わりに妹アレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女に一目惚れしてしまう。
妹に花婿を奪われた形になったが、好みではなかったのか、もともと妹とは仲が良かったのか、特段アレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女との関係がこじれたという話は聞かない。
1846年、パレルモ訪問中のオリガ・ニコラーエヴナ大公女は、ヴュルテンベルク王太子のカールと出会う。カールの求婚にオリガ・ニコラーエヴナ大公女も同意し、その年のうちに結婚式が挙げられた。
カールがどういう意図でオリガ・ニコラーエヴナ大公女に自ら求婚したのかわからないが、カールは同性愛者であった。そのためオリガ・ニコラーエヴナ大公女は幾多のスキャンダルに悩まされた。
オリガ・ニコラーエヴナ大公女は王太子妃(1864年からは王妃)として様々な慈善事業にも従事した。女子教育の拡充に尽力し、1847年にはシュトゥットガルトに小児病院も設立し(オルガホスピタルと名づけられた)、1872年には看護修道院も設立している。
夫がスキャンダルまみれであったので余計、これらを通じてオリガ・ニコラーエヴナ大公女はシュトゥットガルト市民、ヴュルテンベルク国民から愛された。こんにちでも、シュトゥットガルトではオリガ・ニコラーエヴナ大公女の名をところどころで見かける(その名を冠したギムナジウムもある)。
自然科学にも関心が深く、鉱物蒐集でも知られる。のち蒐集品は国立自然博物館に寄贈され、展示されている。
また、オーストラリアでカタ・テュタとして知られているノーザン・テリトリー州の地形も、かつては The Olgas と呼ばれていた(発見者を支援した人物をオリガ・ニコラーエヴナ大公女が後援していたため)。
子がなかったこともあり、次弟コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公に泣きつかれて、1863年にその娘ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ大公女を引き取る。
ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ大公女は癲癇、あるいは舞踏病だったと言われるが、性格的にも幼少から難しい子で(この辺りはおそらく父譲りだろう)、オリガ・ニコラーエヴナ大公女もカールも当初は手を焼いた。しかし徐々にふたりに懐き、ふたりも彼女に愛情を注いで、最終的には1870年に養女としている。
ヴェーラ・コンスタンティーノヴナ大公女への愛情は伊達ではなく、1874年にヴュルテンベルク公ヴィルヘルム・オイゲンと結婚させたのは、同じ一族と結婚させることでヴェーラ・コンスタンティーノヴナ大公女を手放さずに済むからだ、とも言われた。実際、オリガ・ニコラーエヴナ大公女はヴェーラ・コンスタンティーノヴナ大公女の産んだ «孫娘» たちにも愛情を注いだ。
1881年、回想録『Traum der Jugend goldener Stern (黄金の星の青春の夢)』を出版(カールとの結婚まで)。
シュトゥットガルトに埋葬されている。