オリガ・フョードロヴナ (ツェツィーリエ)
Cäcilie Auguste, Ольга Федоровна
バーデン大公女 Prinzessin von Baden
大公妃 великая княгиня (1857-)
生:1839.09.08/09.20−カールスルーエ(バーデン、ドイツ)
没:1891.03.31/04.12(享年51)−ハリコフ(現ウクライナ)
父:レーオポルト1世 1790-1852 バーデン大公(1830-52)
母:ゾフィー・ヴィルヘルミーネ 1801-65 (スウェーデン王グスタフ4世・アドルフ)
結婚:1857−サンクト・ペテルブルグ
& ミハイール・ニコラーエヴィチ大公 1832-1909 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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ミハイール・ニコラーエヴィチ大公と | |||
1 | ニコライ | 1859-1919 | − |
2 | アナスタシーヤ | 1860-1922 | メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世 |
3 | ミハイール | 1861-1929 | メーレンブルク伯女ゾフィーア |
4 | ゲオルギイ | 1863-1919 | ギリシャ王女マリア |
5 | アレクサンドル | 1866-1933 | クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 |
6 | セルゲイ | 1869-1918 | − |
7 | アレクセイ | 1875-95 | − |
南ドイツの領邦君主レーオポルト1世の第八子(三女)。ルター派。
皇妃エリザヴェータ・アレクセーエヴナの従姉妹。
父は政治的にはリベラルだったが、子供たちには厳格だった。その点、オリガは父親似。
結婚に際して正教に改宗し、オリガ・フョードロヴナとなる。
4人の大公妃の中で、唯一夫の愛人に悩まされなかった。もっとも、だからと言って幸せな結婚生活を送ったかと言うと、そうでもないらしい。夫ミハイール・ニコラーエヴィチ大公は仕事にかまけて家庭を顧みなかったそうだ。
1862年、ミハイール・ニコラーエヴィチ大公がカフカーズ副王に任命され、以後20年にわたり夫とともにティフリス(現トビリシ、グルジア)に居住。
バーデンの比較的リベラルな気風で育てられ、ミハイロヴィチ(ミハイール・ニコラーエヴィチ大公の子ら)が進歩的でリベラルな思想を持つ(と思われた)ようになったのはオリガ・フョードロヴナ大公妃の影響もあるかもしれない。それに加えて、サンクト・ペテルブルグの宮殿ではなくティフリスで20年にわたり生活したことが自由奔放さ(比較的)をもたらしたのだろう。
ただしオリガ・フョードロヴナ大公妃は母親としては権威的で、子供たちは愛情以上に畏怖を覚えていたようだ。
もっとも、現在形成されているオリガ・フョードロヴナ像というのは、母親をあまり愛していなかったと思われる四男アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の回想録によるところ大であり、かなりバイアスがかかっている可能性がある。
夫が義兄の皇帝アレクサンドル2世の改革をザカフカージエに導入したのを手伝う形で、女子のための教育機関を設立するなどの活動をおこなった。
1881年、夫が新帝アレクサンドル3世により国家評議会議長に任命されたのに伴い、サンクト・ペテルブルグにお引越し。
1891年、次男ミハイール・ミハイロヴィチ大公のスキャンダルで倒れ、クリミアに療養に出かけた途上、心臓発作で死去。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に葬られる。