ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

オリガ・アレクサンドロヴナ

Ольга Александровна

大公女 великая княжна

生:1882.06.01/06.13−ペテルゴーフ
没:1960.11.24(享年78)−トロント(カナダ)

父:皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ 1845-94
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1847-1928 (デンマーク王クリスティアン9世)

結婚①:1901−ガッチナ(1915離婚)
  & ペーター 1868-1924 (オルデンブルク家の分家)

結婚②:1916−キエフ
  & ニコライ・アレクサンドロヴィチ・クリコーフスキイ 1881-1958

子:

生没年結婚相手
クリコーフスキイと
1ティーホン1917-93アグネス・ペテルセン
2グーリイ1919-87ルート・シュヴァルツ

皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの第六子(次女)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの妹。従兄弟はデンマーク王クリスティアン10世(1870-1947)、ノルウェー王ホーコン7世(1872-1957)、ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)、イギリス王ジョージ5世(1865-1936)。
 祖父アレクサンドル2世の暗殺後に、つまりが父が皇帝となった後に生まれた唯一の子。

 年齢が違いすぎたので、兄や姉たちの遊び相手であったミハイロヴィチの遊び相手にはならなかった。オリガ・アレクサンドロヴナ大公女の遊び相手となったのは、すぐ上の兄ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公と父であった。3人とも屋外で身体を動かすことが好きだった。逆に衣装だの貴金属だのには関心を示さなかった。
 同時にオリガ・アレクサンドロヴナ大公女が幼少から熱中したのが、絵を描くことである。
 また慈善事業、特に医療に関心が深く、自ら医学を学んだ。

 ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルグスキイと結婚はしたものの、かれが同性愛者だったことから、肉体関係はなかったとされる。そもそもふたりは、劇場などでエスコートしされる関係だったとはいえ、特段親しかったわけではない。オリガ・アレクサンドロヴナ大公女がピョートル・オリデンブルグスキイのプロポーズを受け入れたのも、過保護な母親から早く独立したかったこと、そして外国のプリンスと結婚させられるよりはマシだと考えたからだろう。
 結婚後ふたりはツァールスコエ・セローに居住。

 ツァールスコエ・セローに住んだことで、長兄ニコライ2世夫婦やその子供たちと特に親しく付き合うようになった。特に皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナの信頼を勝ち得て、パーティや野外の遊びなどへも姪たちをしばしば連れ出した(アレクサンドラ・フョードロヴナは過保護で、自分以外の人間に子供を委ねることを嫌った)。

 1903年、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の紹介でニコライ・クリコーフスキイ大佐と出会う。やがて恋に堕ちたオリガ・アレクサンドロヴナ大公女は、ピョートル・オリデンブルグスキイとの離婚とニコライ・クリコーフスキイとの結婚を皇帝である長兄ニコライに求める。当然ニコライ2世はこれを拒絶。
 他方、ピョートル・オリデンブルグスキイはニコライ・クリコーフスキイを副官に任命し、ツァールスコエ・セローに住むことを認めた。

 第一次世界大戦が勃発すると、ニコライ・クリコーフスキイは南西戦線に送られ、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女は前線で看護活動に従事する。

 1916年、兄により正式にピョートル・オリデンブルグスキイとの離婚が認められる。その年の瀬も押し迫った頃、南西戦線の司令部があるキエフで、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女はニコライ・クリコーフスキイと結婚。母や姉クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女、その夫アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が参列した。以後、キエフで新婚生活を送るとともに、従前通り看護活動を続けた。

 1917年、二月革命で帝政が崩壊し、独墺軍の侵攻を食い止めることができず、さらにはウクライナ人による独立運動が活発化し、臨時政府がロマーノフを拘束しようとする中で、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女は夫や母とともに、姉のいるクリミアのアイ=トドル(アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の所領)に避難した。ここで第一子ティーホンが生まれている。

 しかし革命はクリミアにも波及してきた。臨時政府はアイ=トドルの皇太后、クセーニヤ大公女一家、オリガ大公女一家を自宅軟禁状態に置いた。その後十月革命でボリシェヴィキーが権力を握ると、1918年、その勢力がクリミアにも伸びてくる。セヴァストーポリ・ソヴィエトとヤルタ・ソヴィエトが、皇族の身柄を巡って対立したおかげで拘束されるのが遅れた。最終的にボリシェヴィキーがかれらを拘束する直前、ドイツ軍がクリミアに侵攻。その後ドイツでも革命が勃発してドイツ軍は降伏したが、その頃には白衛軍が南ロシアからクリミアにかけて掌握していた。こうして一時的な平穏が訪れた。
 1918年11月、イギリス軍が進駐。パリ講和会議に働きかけるためアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が出国したが、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女や皇太后、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女一家は残留した。しかし1919年に入ると内戦の状況も逆転し、赤軍が南ロシアに迫ってきた。このため、1919年4月イギリスの派遣した軍艦で、母皇太后や姉一家はニコラーエヴィチともどもクリミアを後にして亡命した。
 しかしオリガ・アレクサンドロヴナ大公女とニコライ・クリコーフスキイは亡命を拒否(妊娠中だったということもあったのかも)。あくまでロシアにとどまることにし、クバンへ。クバン・コサックとともに農作業に従事し、次男グーリイもこの時生まれている。しかし旗印を欲した白衛軍が彼女に接近し、その結果として赤軍をも招き寄せることになった。オリガ・アレクサンドロヴナ大公女とニコライ・クリコーフスキイはロストーフ=ナ=ドヌーのデンマーク領事館へ。そこから1920年にイスタンブール近郊に逃亡し、最終的にロシアを後にする。

 一旦はベオグラードにとどまったが、最終的にデンマークのコペンハーゲンの母のもとへ。以後、母の死ぬまでその傍らにとどまった。

 母の死後、コペンハーゲン近郊に農場を購入して経営。
 この頃から、これまで描きためてきた絵画を売りはじめる。生活の足しに、という意図もあったのだろうが(もっとも儲けのほとんどは亡命ロシア人対象の慈善事業に注ぎ込んだが)、母も死んで自分の生活に割く時間が増えたことで、生来の趣味に打ち込む余裕ができた、ということではないだろうか。

 第二次世界大戦が勃発し、1940年になってナチス・ドイツがデンマークに侵攻すると、ふたりの息子はデンマーク軍人として戦う。デンマークは1日も保たずに陥落。オリガ・アレクサンドロヴナ大公女とクリコーフスキイは監禁されることになった。
 戦後、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女が亡命ロシア人(つまり «ソ連人民の敵»)を支援しているとして、スターリンがデンマークに抗議。1948年、デンマークからカナダ(オンタリオ州)に移住した。
 トロントのヨーク墓地に、クリコーフスキイとともに埋葬されている。

 1925年、アンナ・アンダーソンと会見するが、彼女が姪アナスタシーヤ大公女であることは否認。

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最終更新日 07 03 2013

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