ニコライ・ニコラーエヴィチ
Николай Николаевич "Старший"
大公 великий князь
陸軍元帥 генерал-фельдмаршал (1878-)
生:1831.06.27/07.09−ツァールスコエ・セロー
没:1891.04.13/04.25(享年59)−アルプカ(クリミア)
父:皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ 1796-1855
母:皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ 1798-1860 (プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)
結婚:1856−サンクト・ペテルブルグ
& アレクサンドラ・ペトローヴナ 1838-1900 (ペーター・フォン・オルデンブルク)
愛人:エカテリーナ・ガヴリーロヴナ・チスローヴァ 1846-89
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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アレクサンドラ・ペトローヴナと | |||
1 | ニコライ | 1856-1929 | モンテネグロ王女スタナ |
2 | ピョートル | 1864-1931 | モンテネグロ王女ミリツァ |
エカテリーナ・チスローヴァと (姓はニコラーエフ) | |||
1 | オリガ | 1868-1950 | ミハイール・カンタクジン公 |
2 | ヴラディーミル | 1873-1942 | ヴェーラ・ポポーヴァ |
エレオノーレ・レンチョーネ | |||
オリガ・ザボートキナ | |||
マリーナ・ザボートキナ | |||
3 | エカテリーナ | 1874-1940 | ニコライ・コレヴォ |
イヴァン・ペルシアーニ | |||
4 | ニコライ | 1875-1902 | オリガ・ザボートキナ |
5 | ガリーナ | 1877-78 | − |
ニコラーエヴィチの祖。皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチの第七子(三男)。
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの弟。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797-1888)の甥。
ニコラーエヴィチ Николаевичи とは、父称ニコラーエヴィチ Николаевич の複数形(日本語表記では区別できないが)。父称とは「〜〜の息子」、「〜〜の娘」を示すものだから、つまり「ニコライの子供たち」というのが本来の意味。それが転じて、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公の子孫をニコラーエヴィチ(複数)と呼ぶ。
次兄コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公が海軍に入れられたのに対して、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公は幼少より陸軍に入ることが定められていた。
クリミア戦争(1853-56)にて初陣。セヴァストーポリ防衛で勇敢な兵士であることを証明した。以後、工兵総監(1856-)、近衛司令官(1864-)、サンクト・ペテルブルグ軍管区司令官、騎兵総監。
20代でサンクト・ペテルブルグにニコラーエフスキイ宮殿を建てて、そこに住む。
女好きで知られたが、妻とは共通点を持たなかった。
バレエ好きで知られ、ペテルブルグ軍管区の部隊のための劇場を建てたりもし、またバレエ団に財政的な支援も行っている。次男の生まれた頃から、バレリーナのエカテリーナ・チスローヴァを愛人とし、公然と付き合いを始める。
それどころかニコライ・ニコラーエヴィチ大公は、妻を不貞の咎で責める(単なるポーズだったのかもしれない)。これに対してアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃は夫の不貞に関して皇帝アレクサンドル2世に訴える。ところがアレクサンドル2世は、訴えを聞き届けるどころか逆にアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃を「病気の治療のため」と称して国外に追いやった。自身が愛人を囲っていたアレクサンドル2世としては、訴えを聞き届けるどころではなかったのだろう。
長兄アレクサンドル2世も次兄コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公も愛人を囲っていたが、公然と妻を侮辱してここまで関係をこじらせてしまったのはニコライ・ニコラーエヴィチ大公だけである。
その後アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃は二度とペテルブルグに戻ることはなかった。
ニコライ・ニコラーエヴィチ大公はエカテリーナ・チスローヴァをニコラーエフスキイ宮殿に連れ込んで暮らしはじめる。ニコライ・ニコラーエヴィチ大公はアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃に離婚を要求するが、断られる。ふたりの子供も母の側に立った。
露土戦争(1877-78)ではドナウ軍司令官に任じられた。しかし司令官としては大したことはなかったようで、戦争途中で実質的な権限を失い、戦勝は部下のもたらしたものとされている。さらに戦後、コンスタンティノープル(イスタンブール)を占領しなかったとして批判された。
戦場では無能であったかもしれないが、その身分と地位から軍隊内部に大きな影響力を持った。
1881年、兄が死に、甥アレクサンドル3世が即位。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公を嫌ったアレクサンドル3世は、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公にも親近感を持っていなかった。そもそも非常に家庭的なアレクサンドル3世は、自身が父の愛人問題で傷ついたということもあって、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公とニコライ・ニコラーエヴィチ大公の兄弟も愛人を囲っていたことを苦々しく思っていた。
すでに軍事省をめぐる汚職事件などに巻き込まれていたニコライ・ニコラーエヴィチ大公は、アレクサンドル3世によりあらゆる職を剥奪される。
1882年、破産。ニコラーエフスキイ宮殿は貸し出され、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公は一般の家に移り住んだ。
1883年、アレクサンドル3世により、エカテリーナ・チスローヴァとの間の子供たちにニコラーエフの姓と貴族の地位が与えられた。
1889年、エカテリーナ・チスローヴァが死去。ニコライ・ニコラーエヴィチ大公は喉頭ガンに罹り、脳を冒される。1890年、狂人と診断され、クリミアに幽閉された。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬されている。