ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ニコライ・ニコラーエヴィチ

Николай Николаевич "Младший"

大公 великий князь

生:1856.11.06/11.18−サンクト・ペテルブルグ
没:1929.01.05(享年72)−カープ・ダンティーブ(フランス)

父:ニコライ・ニコラーエヴィチ大公 1831-91 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ
母:アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃 1838-1900 (ペーター・フォン・オルデンブルク

愛人:ソフィヤ・ブレーニナ
愛人:マリーヤ・ポトーツカヤ

結婚:1907−ヤルタ
  & アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ 1868-1935 (モンテネグロ王ニコラ1世)
             ロイヒテンベルク公ジョルジュ・ド・ボーアルネ夫人

子:

ニコラーエヴィチ。ニコライ・ニコラーエヴィチ大公の第一子(長男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。同じく従姉妹にギリシャ王妃オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女がいる。

 父と区別するため、父を «ニコライ・ニコラーエヴィチ・スタールシイ(年長の)»、子を «ニコライ・ニコラーエヴィチ・ムラードシイ(年少の)» と呼ぶのが一般的である。
 また、皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチと区別するため、ロマーノフ一族内ではニコライ・ニコラーエヴィチ・ムラードシイは «ニコラーシャ Николаша» と呼ばれていた。

 1876年、参謀本部アカデミーを卒業。参謀本部に勤務。露土戦争(1877-78)には、ドナウ軍総司令官としてロシア軍を率いた父の下で従軍し、ドナウ渡河などで活躍する。1884年から連隊長や師団長を歴任。騎兵総監(1895-1905)。軍人としては、少なくとも父よりは優れていたらしい。
 なお、父が愛人をつくって母をないがしろにするようになると、母の側に立った。

 いつ頃からかはよくわからないが、小売店主の娘ソフィヤと暮らし、子供もふたり設けている。1887年には従兄弟アレクサンドル3世に結婚の許可を求めさえしたが、アレクサンドル3世が許可するはずもなかった。
 その後、アレクサンドリンスキイ劇場の女優マリーヤに乗り換えている。

 アレクサンドル3世と同じく狩猟を熱烈に愛し、ボルゾーイ犬を多量に抱えていた(現在ロシアで絶滅したボルゾーイ犬は、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公が西欧の王侯に贈ったものの子孫が生き残っている)。

 第一ロシア革命では、セルゲイ・ヴィッテ(1849-1915)の提唱した十月勅令の発布を支持する。当時革命派との妥協か徹底した弾圧かのふたつの道があったが、コチコチの君主権至上主義者だったニコライ2世は革命を弾圧するため軍事独裁を敷くことを決意し、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公にその役目を依頼した(ニコライ2世自身は軍を押さえていなかった)。しかし自身保守的君主主義者だったニコライ・ニコラーエヴィチ大公はこれを拒否。その結果ニコライ2世は十月勅令の発布を余儀なくされたという。ニコライ2世以上の君主権至上主義者だった皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナは、以来決してニコライ・ニコラーエヴィチ大公を許さなかったとされる。
 混乱する状況の中、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公は近衛兵司令官・ペテルブルグ軍管区司令官(1905-14)、さらには国防会議議長(1905-08)に就任。事態の収拾に当たった。

 1907年、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナと結婚。彼女はロイヒテンベルク公ジョルジュ・ド・ボーアルネと離婚した女性で、このため宮廷ではスキャンダルとなった。しかしニコライ2世がしぶしぶ承認したこの結婚は、双方にとって幸福なものであったらしい。
 アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃はモンテネグロ王女であり、もともと汎スラヴ主義者であったニコライ・ニコラーエヴィチ大公を、さらに汎スラヴ主義にコミットさせることになったと見られる。
 もっとも、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃は熱心なラスプーティン信者だったが(皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナにラスプーティンを紹介したのも彼女)、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公自身はラスプーティンを嫌い、ラスプーティンもニコライ・ニコラーエヴィチ大公を嫌っていた。
 ちなみに皇帝ニコライ2世との関係も微妙で、特にニコライ2世の側が20センチ以上も背の高いニコライ・ニコラーエヴィチ大公に対して劣等感を抱いていたとも言われる。もっともそれを言ったらニコライ2世はすべてのロマーノフに対して劣等感を抱かなければならなくなるわけで(実際そうだったのかもしれないが)、ふたりの関係が微妙だった理由はほかにも考えられるだろう。

 大公であり、首都の軍管区司令官であり近衛兵司令官でもあるニコライ・ニコラーエヴィチ大公は、当然軍の内部でも大きな影響力を持つ。しかしそのために陸軍省の軍政にも口を出したことが批判されたこともある。ニコライ・ニコラーエヴィチ大公が軍人として、政治家としてどの程度のものであったのかはよくわからないが、1908年にはドゥーマ(国会)で議長アレクサンドル・グチコーフ(立憲君主主義者)から批判され、国防会議議長の職を解かれている。

 1914年、第一次世界大戦勃発と共に最高総司令官に任命される。ただしニコライ・ニコラーエヴィチ大公にはそれまで前線で部隊指揮の経験がない。ましてや決して軍事的天才でもなく、そもそも当時のロシア軍・陸軍省・参謀本部の状態からして、誰が最高総司令官でもろくな結果は出せなかっただろう。
 1915年、ドイツ軍に対する相次ぐ敗北の責任を問われて罷免される。言うまでもなくこの決定には、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公を嫌っていたラスプーティンと皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナの意見も反映されていたと思われる。

 最高総司令官の職を解かれたニコライ・ニコラーエヴィチ大公はカフカーズ副王・カフカーズ戦線軍司令官として派遣され、1917年の二月革命をそこで迎える。ニコライ2世は退位に際し、後任の最高総司令官に再びニコライ・ニコラーエヴィチ大公を任命する。しかしニコライ・ニコラーエヴィチ大公はモギリョーフの最高総司令部におもむいた途端に、臨時政府により罷免される。
 カフカーズに帰還するが、そこでも革命(独立)運動が盛んになると、クリミアの所領デュリベルへ。アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃、弟ピョートル・ニコラーエヴィチ大公一家と合流。
 一時期は南ロシアでアントーン・デニーキンにより率いられていた白衛軍の司令官にニコライ・ニコラーエヴィチ大公を推す声も上がったようだが、帝政に好意を持たない勢力が離反するのを怖れた司令部がそれを取り上げなかったという(デニーキンは政治的にはむしろ君主制と共和制のどちらにも与していなかった)。ニコライ・ニコラーエヴィチ大公自身、この時期は政治的な発言・行動をしていない。

 1919年、イギリスの手でロシアから亡命。ジェノヴァでイタリア王ヴィットーリョ・エマヌエーレ3世(アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃の妹婿)の世話になった後、1922年からはフランスはショワニーへ。

 帝政ロシア軍の最高総司令官として、亡命ロシア人の間では高い敬意を払われ、特に軍関係者の指導者と目された。かれらの多くがキリール・ヴラディーミロヴィチ大公に反発しており、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公(と皇太后マリーヤ・フョードロヴナ)をロマーノフ一族の長として担ごうとしたが、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公は比較的政治には無関心だった。
 特に自身が離婚歴のある女性と結婚していたことから、自分自身よりも弟ピョートル・ニコラーエヴィチ大公への皇位継承を主張し、ピョートル・ヴランゲリ(デニーキンの後任)を始めとする元白衛軍人の支持を得たようだ。

 背は6フィート5インチ(193 cm)あった。

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最終更新日 07 03 2013

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