ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ニコライ・コンスタンティーノヴィチ

Николай Константинович

大公 великий князь

生:1850.02.02/02.14−サンクト・ペテルブルグ
没:1918.01.14/01.26(享年67)−タシケント

父:コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 1827-92 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ
母:アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃 1830-1911 (ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフ)

愛人:アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ (アレクサンドル・アゲーエヴィチ・アバザ)

結婚:1878−オレンブルグ
  & ナデージュダ・アレクサンドロヴナ 1861-1929 (アレクサンドル・ドレイエル)

愛人:ダーリヤ・エリセーエヴナ・チャソヴィティナ 1880-1953?
愛人:ヴァレーリヤ(ヴァルヴァーラ?)・フメリニツカヤ 1885?-

子:

生没年結婚相手
アレクサンドラ・アパザと(父称はパーヴロヴィチ、姓はヴォルィンスキイ)
1ニコライ1875-1913
2オリガ1877-1910
ナデージュダ・ドレイエルと(姓はイスカンデル)
1アルテーミイ1881-1919
2アレクサンドル1889-1957オリガ・ロゴフスカヤ
ナターリヤ・ハヌィコヴァ
ダーリヤ・チャソヴィティナと
1スヴャトスラーフ-1919
2ニコライ-1919
3ダーリヤ1896-1966

コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の第一子(長男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。

 陸軍軍人となり、参謀本部アカデミーに学ぶ。自発的に入学し、1868年の卒業時には銀メダルをもらった。
 ちなみに、参謀本部アカデミーで学んだ最初のロマーノフであり(そもそも高等教育機関で学んだ最初のロマーノフだった)、以後、ふたりの従兄弟(ニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラートシー» 大公ニコライ・ミハイロヴィチ大公)が相次いで参謀本部アカデミーで学んでいる。

 1871年頃、アメリカ人ファニー・リアと出会う。ファニー・リアはヨーロッパ各地で浮名を流していた «アヴァンテュリスト» として知られ、この関係を懸念した父により、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は1873年、ミハイール・スコーベレフ率いるトゥルケスターン派遣軍に加えられてヒヴァへ。
 大佐として従軍したヒヴァ遠征ではその活躍を認められ、勲章ももらっている。しかしニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公個人にとっては、東洋学に対する関心を喚起する一大転機となった。サンクト・ペテルブルグに帰還後、地理学協会に参加し、ロシアに併合されたばかりのトゥルケスターンの探検計画を練ったりしている。

ミハイール・ドミートリエヴィチ・スコーベレフ(1843-82)はロシア人陸軍軍人。1861年、モスクワ大学に合格するが、学生運動のために新規入学が禁じられて軍へ。1868年、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の同期で参謀本部アカデミーを卒業。トゥルケスターンに派遣される。ホーカンド・ハーン国を併合し、その軍事知事・司令官。露土戦争(1877-78)で名声を勝ち得、さらにトゥルクメン砂漠の平定に従事。

 しかしファニーとの関係を復活させたニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は、ヨーロッパ旅行にも彼女を伴っている。
 1874年、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が母のイコンから宝石を盗み出した事件が発覚。一切は秘密にされ、アレクサンドル2世自身の裁定で、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は «狂人» とされ、国内追放。ファニー・リアは国外追放に処された。

 称号も階級も剥奪され、事実上存在すら抹消されたニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は(ただし形式上大公の称号と皇位継承権は残されている)、サンクト・ペテルブルグから追われ、半分自宅軟禁状態に置かれた(生活費は皇室持ち)。
 以後、1874年から1881年まで、ロシア国内を10回も転々とする。この頻繁な «引越し» の一因は、追放先でもニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が放埓な生活を続けたためだろう(アレクサンドル2世の財務大臣の令嬢に子を産ませているのがまさにこの時期)。

ちなみにニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公とアレクサンドラ・アバザとの間の子供たちには、1888年にアレクサンドル3世によって貴族の位とパーヴロヴィチという父称、ヴォルィンスキイという姓が与えられている。パーヴロヴィチという父称は、当時のアレクサンドラ・アバザの夫パーヴェル・フェリクソヴィチ・スマロコフ=エリストン伯(かのユスーポフ公の叔父)にちなみ、ヴォルィンスキイという姓はニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の名乗った «ヴォルィンスキイ大佐» による。

 1877年、オレンブルグにて、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は『ピョートル大帝の示した中央アジアへの水路』という本を出版し(無記名で)、トゥルケスターン開発を訴えている。
 それだけにしておけばいいものを、かれはここで秘密結婚をしている。相手ナデージュダ・ドレイエルはオレンブルグ市警察長官の娘。ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公はこの時ヴォルィンスキイ Волынский を名乗ったとされるが、ナデージュダのことは «イスカンデル公妃 княгиня Искандер» と呼んだ(イスカンデルとはアレクサンドロス大王のこと)。
 しかしこの結婚は宗務院により無効とされ、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公もドレイエル一家もオレンブルグを追放された。しかしナデージュダはニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公と別れることを肯んぜず、オレンブルグを追われたニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公についていっている。

 1881年、皇帝となった従兄弟アレクサンドル3世は、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公とナデージュダ・ドレイエルの結婚を認め、その配流先をトゥルケスターンの主都タシケントに変更。トゥルケスターンに魅せられていたニコライ大公に配慮したのだろうか。
 タシケントでは、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は «ヴォルィンスキイ大佐»、あるいは «イスカンデル» を名乗った。

 ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公はタシケントに広壮な邸宅を建て(現ウズベク外務省迎賓館)、劇場や映画館も建て、ロシアで学ぶトゥルケスターン学生のための奨学金も設置している。広壮な邸宅では若い頃から蒐集してきた美術品を展示し、現在は国立美術館の主要な所蔵品となっている。形式的には依然自宅軟禁状態に置かれていたはずだが、実際には土地の名士として、特にヨーロッパ系の住人の間で人気があったらしい。
 さらに、工場を建てたり写真店を開いたり(もちろんかれ自身が写真を撮るわけではないが)、何より運河を建設するなど、さまざまな営利・非営利の事業を立ち上げて経営する実業家として成功。特に運河建設(100キロに及ぶ大運河が建設された)と灌漑事業により、広大なロシア人入植地が拓かれた。

 この頃ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は、別の女性と結婚したらしい。1900年のことで、相手はダーリヤ・チャソヴィティナだとも、1901年、あるいは1905年のことで、相手はヴァレーリヤ・フメリニツカヤだとも言われ、詳細はよくわからない。言うまでもなくこれは二重結婚で法的に無効である。ナデージュダ・ドレイエルはこの前後にサンクト・ペテルブルグに赴いていたが、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公の二重結婚が原因かどうかも不明。その後ナデージュダはペテルブルグにとどまってタシケントに帰らなかったとも、タシケントでニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公、ナデージュダ、新妻の3人で暮らしたとも、あるいは新妻がタシケントから追放されたとも言われる。
 1905年、ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公はクリミアに送られた。療養のためとされたが、あるいは第二の結婚と関連があったのかもしれない。クリミアにはナデージュダ・ドレイエルも駆けつけたらしい。その後妹オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女のとりなしもあって、1年後にはタシケントへの帰還が認められた。

 第一次世界大戦には一切かかわらなかったようだ。
 ロシア革命を歓迎し、臨時政府に祝電を打ったりしている。若い頃の革命家気取りを思い出したのだろうか。それともかれを追放した帝政への復讐という気分だったのだろうか。
 帝政の崩壊により晴れて自由の身となったニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公は、サンクト・ペテルブルグにナデージュダとの息子たちを訪ねていったりしたようだが、その後すぐにタシケントに戻っている。

 1918年1月、死去。
 かつてはタシケント・ソヴィエトに逮捕されて処刑された、という説が広く流布していたようだが、近年はこれを否定する説が一般的なようだ。処刑されたどころかボリシェヴィキーによって公的な葬儀が営まれたとする説まである。公的な葬儀が営まれたか否かはともかくとして、死因は肺炎だったようだ。
 タシケントに葬られたようだが、正確な場所は不明。

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最終更新日 07 03 2013

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