ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ニキータ・アファナーシエヴィチ・ベケートフ

Никита Афанасьевич Бекетов

生:1729
没:1794(享年65?)−オトラーダ(サラートフ県)

父:アファナーシー・アレクセーエヴィチ・ベケートフ
母:?

結婚:なし

愛人:女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ 1709-61 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ

子:なし

弱小貴族。正教徒。
 父アファナーシー・アレクセーエヴィチは近衛士官を務めた。母はスウェーデン人。

 シュラフタ幼年学校に入学。ここで劇を上演した際に、色白で顔立ちの整ったニキータ・ベケートフは女役を演じた。ある時かれに目を留めたエリザヴェータ・ペトローヴナは、1750年の卒業と同時にニキータ・ベケートフを下士官に任じ、1751年にはアレクセイ・ラズモーフスキイ伯の副官とした。

 しかしニキータ・ベケートフがエリザヴェータ・ペトローヴナの寵臣だった時期はごく短かった。ピョートル・シュヴァーロフ伯の罠(?)にかかり、1751年中には宮廷から追われる。代わってエリザヴェータ・ペトローヴナの寵臣となったのが、ピョートル・シュヴァーロフ伯の従兄弟イヴァン・シュヴァーロフだった。

 七年戦争(1756-63)に従軍。グロス=イェーゲルスドルフの戦いやケーニヒスベルク攻略にも参加。しかしツォルンドルフの戦いでプロイセン軍の捕虜となる。1760年、帰国。
 1762年、ピョートル3世により陸軍少将。

 1763年、エカテリーナ2世によりアーストラハン県知事に任命される。以後、1780年までこの職にとどまった。
 これまでほとんど中央の手が入っていないこの地域で、ニキータ・ベケートフは農地開発を推進。漁業振興にも力を入れ、ワイン産業も興した。さらにはペルシャとの交易も積極的に支援する。またこの地域への定住を進めていたカルムィク人を体制に取り込む上でも大きな役割を果たした。

 音楽的才能があり、楽曲を作詞している。詩人でもあり、公表はされなかったが戯曲も書いている。

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最終更新日 07 03 2013

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