ナターリヤ・パーヴロヴナ・パーレイ
Наталья Павловна Палей, Natalie Paley
ホーエンフェルゼン伯女 Prinzessin von Hohenfelsen
パーレイ公女 княжна Палей (1915-)
生:1905.11.22/12.05−パリ(フランス)
没:1981.12.27(享年76)−マンハッタン(アメリカ)
父:パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公 1860-1919 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ)
母:オリガ・ヴァレリヤーノヴナ・パーレイ公妃 1866-1929 (ヴァレリヤーン・グリゴーリエヴィチ・カルノーヴィチ)
結婚①:1927(1937離婚)
& リュシアン・ルロン 1889-1959
結婚②:1937
& ジョン・チャップマン・ウィルスン -1961
子:なし
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公とオリガ・カルノーヴィチの第三子(次女)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの従姉妹。
ロマーノフ家の家法に従えば両親の結婚は貴賎結婚。このため、ナターリヤ・パーヴロヴナ誕生当時、父は国外追放処分を受けており、ナターリヤ・パーヴロヴナも両親とともにパリで生まれ育った。
またこのため、ナターリヤ・パーヴロヴナはロマーノフ一族として認められず、母の称号ホーエンフェルゼン伯女を継いだ。
1914年、第一次世界大戦の勃発で父の帰国が許され、ナターリヤ・パーヴロヴナもロシアへ。パーレイの姓と公女の称号を与えられた。
革命後、当時病気で臥せっていた父はしばらく処分を免れていたが、1918年には逮捕され、1919年初頭に処刑された。ナターリヤ・パーヴロヴナ公女は姉イリーナ・パーヴロヴナ公女とともにフィンランドに出国。
その後母とも合流し、生まれ育った故郷フランスに亡命した。
モデルとしてファッション・デザイナーのリュシアン・ルロンに招かれ、それが縁でかれと結婚。その後もモデルの仕事を続けた(『VOGUE』などにもしばしば登場している)。
リュシアンとの関係は30年代に入ると崩れていき、その一方でナターリヤ・パーヴロヴナ公女は映画女優として活動を開始。1935年にはハリウッドへ。もっともハリウッドでは2本の映画に出演したが、名声は得られなかった。
1937年、映画女優の仕事を辞め、リュシアンと離婚すると、ブロードウェイのプロデューサー、チャップマン・ウィルスンと再婚。ただしナターリヤ・パーヴロヴナ公女自身はブロードウェイに出演したことはない。
晩年は姉イリーナ・パーヴロヴナ公女とも関係を持たず、酒に溺れ、視力も失って、完全な孤独のうちに死んでいったと言われる。
交友関係のあった著名人として、ジャン・コクトー(その子を死産したとも言われる)、セルジュ・リファール、ルキーノ・ヴィスコンティ、モーリス・シュヴァリエ、シャルル・ボワイエ、サン=テグジュペリ、マレーネ・ディートリヒ、キャサリン・ヘップバーン、ケーリー・グラントなどが挙げられる。レマルクの愛人だったとも言われる。