ナターリヤ・セルゲーエヴナ・シェレメーティエフスカヤ
Наталья Сергеевна Шереметьевская
ブラーソヴァ伯妃 графиня Брасова
ロマーノフスカヤ=ブラーソヴァ公妃 светлейшая княгиня Романовская-Брасова (1935-)
生:1880.06.26/07.08−モスクワ
没:1952.01.26(享年71)−パリ(フランス)
父:セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・シェレメーティエフスキイ
母:?
結婚①:1896(1899離婚) or 1902(1905離婚)
& セルゲイ・イヴァーノヴィチ・マーモントフ 1877-1938
結婚②:(1910離婚)
& ヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチ・ヴリフェルト
結婚③:1911−ヴィーン
& ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公 1878-1918 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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セルゲイ・マーモントフと | |||
1 | ナターリヤ | 1903-69 | ヴァル・ギールグッド |
セシル・グレイ | |||
マイクル・マジョリア | |||
ミハイール大公と | |||
2 | ゲオルギイ | 1910-31 | − |
父はモスクワの法律家。正教徒。
最初の夫マーモントフは劇場関係者(最終的にはボリショイの演出家)。
ふたりめの夫ヴルフェルトは、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の指揮する連隊に勤務する大尉だった。ちなみにかれの名は、ドイツ語(スウェーデン語?)表記では Wulffert で «ヴルフェルト» と発音されるが、ロシア語では Вульферт と表記して «ヴリフェルト» と発音する。
1908年頃、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公と出会う。貴族でもなく、離婚暦のある人妻とロマーノフ家の大公との結婚を皇帝ニコライ2世が許すはずもなく、ふたりはしばらく愛人関係を続けていた。ただしヴルフェルトには多額の手切れ金を払って離婚。
ひとり息子ゲオルギイは、離婚した直後に生まれている。
1912年、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公とヴィーンのセルビア正教会にて秘密結婚。国外での結婚故にロシア皇帝にも、また正教会とはいえセルビア正教会であるが故にロシア正教会にも、この結婚を無効とすることができなかった。ニコライ2世はふたりを国外追放処分とし、ふたりはイギリスに居住。
第一次世界大戦の勃発に伴い帰国を許され、ガッチナに居住。ニコライ2世により結婚は認められ、ゲオルギイはミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の子として認知され、ミハイロヴィチの父称の使用と貴族の地位を認められた。しかし、形式的にロマーノフ家の一員と認められはしたものの、ロマーノフ家とのつきあいはまったくなかった。
二月革命後はガッチナに自宅軟禁。
1918年、ボリシェヴィキーによりミハイール・アレクサンドロヴィチ大公はペルミに追放される。ナターリヤ・ブラーソヴァは、ゲオルギイ・ミハイロヴィチをコペンハーゲンのデンマーク王家に預け、自身は娘とともにしばらくロシアにとどまってミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の救出を試みた。しかし、やがて自らもボリシェヴィキーに逮捕される。拘置期間は10ヶ月に及んだが、病気になって刑務所内の病院に入れられ、脱出。看護婦に化けて、娘を連れて国外逃亡に成功した。
子供たちとともにロンドンに落ち着いた。
1921年、娘がイギリス人の平民と結婚したのが不満で、以後娘との付き合いは絶える。
ロマーノフ一族をはじめとする王族貴族との付き合いはほとんどなかったが、自宅でパーティを開くなど贅沢な暮らしを続けた。
ナターリヤ・ブラーソヴァは、息子ゲオルギイ・ミハイロヴィチをハーローに入学させるが、その後経済的に苦しくなり、1927年にはパリへ(ゲオルギイ・ミハイロヴィチはそのままロンドンにとどまる)。ナターリヤ・ブラーソヴァは困窮の中、慈善病院で死んでいる。死因は肺ガン。パシー墓地に息子ゲオルギイ・ミハイロヴィチとともに埋葬されている。
1928年、ロシア皇帝を自称するキリール・ヴラディーミロヴィチ大公から公妃の、1935年にはロマーノフスカヤ=ブラーソヴァ公妃の称号が与えられる。