ミハイール・ニコラーエヴィチ
Михаил Николаевич
大公 великий князь
陸軍元帥 генерал-фельдмаршал (1878-)
生:1832.10.13/10.25−ペテルゴーフ
没:1909.12.05/12.18(享年76)−カンヌ(フランス)
父:皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ 1796-1855
母:皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ 1798-1860 (プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)
結婚:1857−サンクト・ペテルブルグ
& オリガ・フョードロヴナ 1839-91 (バーデン大公レーオポルト1世)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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オリガ・フョードロヴナと | |||
1 | ニコライ | 1859-1919 | − |
2 | アナスタシーヤ | 1860-1922 | メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世 |
3 | ミハイール | 1861-1929 | メーレンブルク伯女ゾフィーア |
4 | ゲオルギイ | 1863-1919 | ギリシャ王女マリア |
5 | アレクサンドル | 1866-1933 | クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 |
6 | セルゲイ | 1869-1918 | − |
7 | アレクセイ | 1875-95 | − |
ミハイロヴィチの祖。皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチの第十一子にして末子(四男)。
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの弟。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797-1888)の甥。
ミハイロヴィチ Михайловичи とは、父称ミハイロヴィチ Михайлович の複数形(日本語表記では区別できないが)。父称とは「〜〜の息子」、「〜〜の娘」を示すものだから、つまり「ミハイールの子供たち」というのが本来の意味。それが転じて、ミハイール・ニコラーエヴィチ大公の子孫をミハイロヴィチ(複数)と呼ぶ。
クリミア戦争(1853-56)では砲兵将官としてセヴァストーポリ防衛に従軍。
1862年、長兄アレクサンドル2世によりカフカーズ副王に任命される。以後20年間(1881年まで)、ティフリス(現トビリシ、グルジア)に家族とともに居住。サンクト・ペテルブルグにはたまに顔を出す程度だった。
ザカフカージエがロシアに併合されてからすでに50年が経っていたが、依然 «遅れた» 地域であった。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公は兄の改革をザカフカージエでも実施すると同時に、行政機構や司法機関を整備し、道路の建設や産業の育成などインフラの整備にも力を注いだ。
気性からして軍人で(もっともロマーノフ男子はほとんどみなそうだった)、妻にも子供たちにも厳格な規律を要求した。子供たちにとっては近づき難い存在だったようだが、この点では妻オリガ・フョードロヴナ大公妃も似たり寄ったりで、その意味では似たもの夫婦だったのかもしれない。
ただ、だからと言って夫婦仲が円満だったかと言うとその点はよくわからない。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公は職務にかまけて、あまり家庭は顧みなかったらしい。その点兄たちと一緒だが、とはいえ兄たちとは違って、4兄弟の中で唯一愛人を囲わなかった。
露土戦争(1877-78)ではカフカーズ戦線総司令官。あまり活躍したとも思えないが、ドナウ戦線総司令官だった兄ニコライ・ニコラーエヴィチ大公同様、戦後ロシア元帥になっている。
1881年、皇帝に即位した甥アレクサンドル3世により、次兄コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公に代わり国家評議会議長に就任(1881-1905)。また砲兵総監にも任命されている(-1905)。
これに伴い、ミハイール・ニコラーエヴィチ大公は一家を挙げてサンクト・ペテルブルグに引っ越し。サンクト・ペテルブルグではミハイロフスキイ宮殿に住んだ。
ふたりの兄コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公とニコライ・ニコラーエヴィチ大公がともにアレクサンドル3世により敬遠されたため、多くの場合ミハイール・ニコラーエヴィチ大公がロマーノフ一族の最年長者として敬意を払われた。
軍人としても政治家としても特段の功績があるわけではないが、公私にわたりこれといった問題も起こさず、4代の皇帝に忠実に仕えた。
1891年、次男ミハイール・ミハイロヴィチ大公が貴賎結婚をし、ロマーノフ一族を震撼させた。その直後妻オリガ・フョードロヴナ大公妃が死去。
1894年、四男アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公がクセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女と結婚したが、これは最初(で最後)のロマーノフ同士の結婚となった。
1903年、病に倒れる。のち言葉は取り戻すが、車椅子の生活を強いられることになった。
当初は妻の実家にあるバーデン=バーデンで治療を受けたが、その後娘アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女の住んでいたカンヌで静養する。
ここで、12年前に国外追放処分になった次男ミハイール・ミハイロヴィチ大公と再会し、その妻ゾフィーアや孫たちとも初めて会い、気に入ったらしい。以後1909年まで南仏にミハイール大公一族が集合することになった。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬された。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公が、ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬された最後となった。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂が手狭になったため、すでにこれ以前から、皇帝一家を除くロマーノフ一族のための霊廟が、ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に隣接して別途建設されていた。一般的に «大公霊廟» と呼ばれるが、前年1908年に死んだアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公はすでに «大公霊廟» に埋葬されている。ミハイール・ニコラーエヴィチ大公も «大公霊廟» に埋葬しても良かったのだろうが、おそらく最長老であること、妻がすでにペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬されていたことなどが考慮されたのだろう。
ちなみに、伯母マリーヤ・パーヴロヴナ大公女を抜いて、ロマーノフの最高齢記録を更新。ただしロマーノフ家の嫁も含めると、義理の伯母アンナ・フョードロヴナ大公妃が78、義姉アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃が80。