ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ミハイール・フョードロヴィチ

Михаил Федорович

全ルーシのツァーリ царь всея Руси (1613-)

生:1596.07.12/07.22−モスクワ
没:1645.07.12-13/07.22-23(享年49)−モスクワ

父:フョードル・ニキーティチ・ロマーノフ 1554?-1633
母:クセーニヤ・イヴァーノヴナ -1631 (イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェストーフ)

婚約者:マリーヤ・イヴァーノヴナ・フローポヴァ -1633

結婚①:1624−モスクワ
  & マリーヤ・ヴラディーミロヴナ公女 -1626 (ヴラディーミル・ティモフェーエヴィチ・ドルゴルーキー公

結婚②:1626−モスクワ
  & エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナ 1608?-45 (ルキヤーン・ステパーノヴィチ・ストレーシュネフ)

子:

生没年結婚相手
エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナと
1イリーナ1627-79
2ペラゲーヤ1628-29
3アレクセイ(ツァーリ)1629-76マリーヤ・ミロスラーフスカヤ
ナターリヤ・ナルィシュキナ
4アンナ1630-92
5マルファ1631-32
6イヴァン1633-39
7ソフィヤ1634-36
8タティヤーナ1636-1706
9エヴドキーヤ1637
10ヴァシーリイ1639

ロマーノフ家最初のツァーリ。
 父フョードル・ニキーティチの子の中で、唯一生き残った男子(末子と言われることが多いが、はっきりしない)。

 1601年に父母がともに修道士にさせられて(父の修道名はフィラレート、母はマルファ)モスクワから追放されると、ミハイール・フョードロヴィチは姉タティヤーナ・フョードロヴナとともに叔母マルファ・ニキーティチナ(父の妹)に引き取られ、ベロオーゼロへ。その後、ロマーノフ家の領地クリンに(現在はチャイコフスキイゆかりの地として有名)。
 1605年、偽ドミートリイ1世により釈放された母と再会。ロストーフ府主教となった父とともにロストーフに居住。1608年からモスクワへ。
 1611年、父がポーランド王ジグムント3世(1566-1632)にポーランドで監禁されると、ミハイール・フョードロヴィチと母もモスクワでクレムリンに監禁された。その後、母の実家のあるコストロマーに逃亡。

 1613年、若干16歳で全国会議にてツァーリに選出される。

全国会議 Земский собор は、言わばロシア版議会。ただしこのロシア版議会の誕生は、君主と貴族との相克の結果ではない。1549年に最初の全国会議が招集されたのは、まだ若いイヴァン雷帝が広範な支持を必要としたからである。弱体な君主権を補うのがその存在意義であったため、ロマーノフ家の君主権が確立したことで全国会議は用済みとなる。1653年が最後となった(ただし異論もある)。
 なお、当初は貴族と聖職者から成っていたが、1610年にはセミボヤールシチナによって «第三身分» も招集された。ただしフランスの三部会のように階級別に審議をすることはなかった。

 16のガキで、大貴族との有力なコネもなく、父も不在で、全国会議に参集した連中のおそらく大多数は顔を見たこともなかったであろうミハイール・フョードロヴィチがなぜツァーリに選ばれたのか。

といった理由が考えられるが、いずれも消極的な理由にすぎない。
 しかし逆に言えば、これだけ誰からも受け入れられる(反対されない)人物も、当時のロシアにあってはほかにいなかっただろう。
 ちなみにこの時名が挙がったのは、アンドレイ・トルベツコーイ公ヴァシーリイ・ゴリーツィン公といった大貴族に加え、ポーランド王太子ヴワディスワフ(1595-1648)、スウェーデン王子カール・フィリップ(1601-22)などがいた。

コサック казак (ロシア語では «カザーク»)とは、語源的に言えばテュルク系の言葉(カザフと同語源)。もともとは南ロシアからウクライナにかけてのステップ地方に住んでいた、ハーンやスルターンなどの支配に属さないテュルク系の人々の集団だったが、16世紀以降、こんにちのロシア・ウクライナなどから大量の逃亡農民がかれらに合流。またたく間に集団はスラヴ化されていき、17世紀の時点ではロシア語かウクライナ語を話す正教徒がほとんどになっていた(ただし当時はまだロシア語とウクライナ語はいまほど異なってはいなかった)。
 元来が自由な民で、しかも逃亡農民を多量に抱え込んでいたため、いかなる権力にも属さなかった。自分たちの自由と生活を、周辺国家や遊牧民族からまもるために武装化。ドン河、ドニェプル河、ヤイク河、テレク河などの流域に、«長老» の下に自治的な組織をつくっていった(これを «軍団» と呼ぶ)。こうして誕生したのがドン・コサック、ザポロージエ・コサック(ドニェプル)、ヤイク・コサック、テレク・コサックなどである。
 かれらは自分たちの逃げてきた祖国(ロシアやポーランド)とのつながりを完全に絶っていたわけではなく、エルマークのようにシベリア征服の尖兵となったり、この時期のドン・コサックのようにむしろ積極的に祖国の内政に干渉することも多々見られる。

 ポーランド軍がツァーリに選出されたミハイール・フョードロヴィチを拘束しようとコストロマーに迫った時には、イパーティエフスキイ修道院に隠れた。この時ポーランド軍を道案内すると称して惑わし、ミハイールを救ったイヴァン・スサーニンの逸話はのちにグリンカによってオペラ『皇帝に捧げし命』になった。

 16のミハイール・フョードロヴィチがツァーリ選出の報にどう反応したかは知られていないが、母は当初これに反対したと言われる。ボリース・ゴドゥノーフフョードル2世偽ドミートリー1世ヴァシーリー・シュイスキイと、4代にわたってまともにその生を全うしたツァーリがいなかったのだからそれも当然かもしれない。
 しかし最後には母も折れ、7月11日/7月21日、モスクワはクレムリンにあるウスペンスキイ大聖堂で、ロマーノフ家の初代ツァーリの戴冠式が行われた。

ウスペンスキイ大聖堂 Успенский собор はクレムリン内にある3大聖堂(?)のうちのひとつ。1547年、イヴァン雷帝が初めてツァーリとして戴冠式をおこなったのがここだった。以後、歴代のツァーリ・皇帝はここで戴冠式を挙げている。それは首都がサンクト・ペテルブルグに移っても変わらなかった。
 なお、ロシア語の собор は日本語で «寺院» と訳されることがあるが、仏教施設ではないのだからこの訳語は不適切と言うべきだろう。

 ミハイール・フョードロヴィチの即位当時、ロシアは10年にわたる混乱状態からまだ抜け出せずにおり、南方では無政府状態の中コサックが暴れまわり、西部はポーランド、北西部はスウェーデンに占領された状態にあった。
 1614年にはドン・コサック指導部を政権内に組み込み、ノガイとも講和を結んだ。
 1617年にはスウェーデンと、1618年にはポーランドと講和。立場の弱かったロシアは、スウェーデンには沿バルト地域を、ポーランドにはスモレンスクやチェルニーゴフを、それぞれ割譲することを余儀なくされた(それでもスウェーデンからノーヴゴロドを奪回した)。
 ともあれ、崩壊しかけた国家の統一を何とか維持し、立て直したその功績はもっと評価されていい。

ポーランドは1605年から、スウェーデンは1609年以来ロシアを荒らしまわっていた。これは «動乱の時代» の負の遺産である。
 «動乱 Смута»、あるいは «動乱の時代 Смутное время» と呼ばれるのは、1613年にミハイール・フョードロヴィチがツァーリとして即位するまで続いたロシアの混乱(の時期)を指す。発端をいつとするかは人によって違い、1584年のイヴァン雷帝の死、1598年のフョードル1世の死、1604年の偽ドミートリイ1世の登場、1605年のボリース・ゴドゥノーフの死、等が挙げられることが多い。特にボリース・ゴドゥノーフ死後はポーランド軍がロシアに侵攻。モスクワも占領され、これに対抗するために呼び寄せたスウェーデン軍に北西部を占領されて、ロシアは崩壊の瀬戸際に立たされていた。

ポーランド王国とリトアニア大公国は14世紀末以来、両国の君主をひとりの人間が兼ねるという «同君連合» の関係にあった。正式に連合国家となるのは16世紀後半だが、実質的にはポーランドがリトアニアを併合したも同然で、このため世間一般的にも、また当コンテンツでも、これ以降のポーランド=リトアニアを単純にポーランドと呼ぶことにする。
 リトアニアは14世紀以来ベラルーシとウクライナを領土としていて、さらにロシアにも手を伸ばしていた。ポーランドとリトアニアが連合国家となったことで、ロシアとリトアニアの対立関係がそのままポーランドに引き継がれた。つまりスモレンスクもチェルニーゴフも16世紀初頭にロシアがリトアニアから奪った土地であるが、それがこの時ポーランドに «返還» されたわけである。

スウェーデンは16世紀以来バルト海沿岸地域への領土拡張を推進。バルト海をスウェーデンの湖とするため、こんにちのエストニア、ラトヴィアに進出しており、リヴォニア戦争(1558-83)もその一環であった。«動乱の時代» にノーヴゴロドを占領したのも、バルト海東岸の領土を確保するためである。
 なお、スウェーデンはこの直後からその目をバルト海南岸(ドイツ)に向け、対ロシア進出は後回しとする。この時ロシアにノーヴゴロドを気前よく返還したのも、あるいはそのためかもしれない。国力回復をはかるロシアにとっては幸いなことであった。

キプチャク・ハーン国は15世紀に空中分解してカザン・ハーン国、アストラハン・ハーン国、シビル・ハーン国、クリム・ハーン国などが成立したが、最も早く分離独立したのがノガイ。ウラル山脈南方のステップ地域を活動領域とした。
 «ノガイ・ハーン国» と呼ばれないのは、ハーンがいないからである。つまりノガイは、チンギス・ハーンの末裔が建てた国ではなかったのである。ハーンがいなかったためか、しばしば中央権力自体が存在せず、これもあって16世紀には、ツァーリに臣従する大ノガイと、これに反発する小ノガイに分裂。小ノガイはカフカーズ北西部に移住してクリム・ハーン国に臣従する。とはいえ大ノガイもしばしばロシアでの略奪を繰り返し、北カフカーズに移住してオスマン帝国に臣従したりしている。ちなみに、1800年前後に最終的にロシアに屈服したノガイの末裔は、現在も少数民族として北カフカーズに残っている。

 と言っても、その功績を帰すべきはミハイール・フョードロヴィチではないかもしれない。
 この頃のロシアの国家機関は、大雑把に言って、不定期に召集される全国会議と恒常的な貴族会議があり、その下に日常的な行政事務機関であるプリカーズと呼ばれる各種官庁があった。全国会議も貴族会議も、立法府でもなければ行政府でもなく、本来はツァーリの諮問機関でしかなかった(と言い切るのも問題なのだが)。立法権も行政権も、絶対専制君主たるツァーリが握るべきものだったからである。が、この時期は例外的に全国会議や貴族会議が大きな力を持った。

貴族会議 боярская дума は、その名のとおりボヤーリンの称号を持つ貴族たちの会議。もともとキエフ・ルーシ以来、大土地所有者たるボヤーリンは権力者を時には支え、時にはこれと敵対してきたが、かれらが権力者にモノ申す場が貴族会議だった(時には権力者に代わって重要な決定を行った)。
 しかしボヤーリンは特に15世紀以降そのあり方を大きく変え、君主(モスクワ大公)によって貴族に与えられる称号となった。これによりボヤーリン、ひいては貴族会議はモスクワ大公(のちツァーリ)に従属するようになっていく。
 アレクセイ・ミハイロヴィチの治世には実質的な権限を喪失。形式的には1711年に元老院が創設されたことで廃止された。

プリカーズ приказ (官庁)は行政の実務を担当。イヴァン大帝の時代に発生し、以後、必要に応じて新たなプリカーズがつくられていき、必要がなくなれば廃止されていった。そこには何らの秩序もなく、そのため複数のプリカースの権限が重複するのは当たり前。
 最も大きなものはポメースヌィイ・プリカーズ(封地庁、知行地の給付や世襲領地の管理)だが、ほかにポソーリスキイ・プリカーズ(使節庁=外務省)、ストレレーツキイ・プリカーズ(銃兵庁、銃兵部隊を統括)、アプテカールスキイ・プリカーズ(薬務庁、傷病兵対策としてストレレーツキイ・プリカーズから派生した)、コニューシェンヌィイ・プリカーズ(厩舎庁、要するに厩番)、ポステーリヌィイ・プリカーズ(寝具庁、ベッド係)など、職能別のプリカーズもあれば、シベリア担当、カザン担当など地域別のプリカーズもあった。
 1720年前後に相次いで新設の参事会(コレーギヤ)に取って代わられた。

 ミハイール・フョードロヴィチは意志薄弱で(あったと言われる)、常に側近の影響下に置かれた。特に即位当初はミハイール・フョードロヴィチ自身まだ若年だったこともあり、母后である修道女マルファとその甥サルトィコーフ兄弟が大きな権勢を誇ったが、貴族会議を拠点とする大貴族、全国会議を拠点とする中小貴族や都市民なども依然として大きな発言力を持ち、政権はしばらく混乱していた。
 その中でも、1613年に召集された全国会議は1622年まで存続し、統治面で大きな役割を果たしている。全国会議はその後も頻繁に開催され、ミハイール・フョードロヴィチの統治を助けている(ミハイールの治世32年間に都合10回召集された)。
 もっとも、ミハイール・フョードロヴィチの個性についてはほとんどわかっておらず(書簡や日記のたぐいは一切残していないし、同時代人の記録もあまり残っていない)、今後研究が進むにつれて評価も変わってくるかもしれない。

 ポーランドとの講和を受けて、1619年に父フィラレートがポーランドから帰還した。ミハイール・フョードロヴィチは父を空位となっていたモスクワ総主教に任じ、ツァーリの称号であった «大君主 Великий государь» を名乗ることを認めて、政治の実権を与えた。これにより、マルファとサルトィコーフ兄弟が失権し、ようやく安定した新政権の運営が始まる(1622年に全国会議がいったん閉会するのはその表れだろう)。
 こうして聖俗両界に最高権力者として君臨することになったフィラレートがまず取り組んだのは、やはり疲弊したロシアの再建と、秩序の回復だった。具体的には、増税と農民支配の強化だった。さらには軍制改革も行い、«新制連隊» と呼ばれた徴募兵から成る西欧式の軍隊が編成される(フィラレート死後に解体された)。

ミハイール・ボリーソヴィチ・シェイン(-1634)は古い貴族。スモレンスク防衛(1609-11)の英雄。ポーランドの捕虜となり、フィラレートとともに帰国。その片腕としてチェルカースキイ公等とともに大きな権力を握る。特に軍制改革はかれの独壇場。対ポーランド戦争(1632-34)ではロシア軍の司令官。フィラレートの死で失権し、処刑された。
 イヴァン・ボリーソヴィチ・チェルカースキイ公(1580?-1642)は、ミハイール・フョードロヴィチの従兄弟(叔母マルファ・ニキーティチナの子)。1620年代初頭からフィラレートの下で主要なプリカーズの長を独占し、実質的に行政を担当。フィラレート生存中から20年間にわたってロシアを実効支配した。

 ミハイール・フョードロヴィチは1616年に20歳になったのを契機に結婚を決意。小貴族の娘マリーヤ・フローポヴァに白羽の矢を立てる。しかしその親族のフローポフ一族がサルトィコーフ兄弟と対立したことから破談。マリーヤ・フローポヴァは一族と共にシベリアに追放された。ミハイール・フョードロヴィチはマリーヤ・フローポヴァを想い続け、1619年にフィラレートが帰国したことで道が開けたかに見えたが、結局あくまで反対をつらぬく母后マルファに逆らうことができず、マリーヤ・フローポヴァを諦めた。
 フィラレートは外交的孤立から脱するため、ミハイール・フョードロヴィチの妃としてデンマーク王女やらスウェーデン王女やらブランデンブルク選帝侯の妹やらを見繕ったが、いずれも実を結ばなかった(最大の障害は正教への改宗にあったと言われる)。
 結局ミハイール・フョードロヴィチは1624年、マルファがあつらえたマリーヤ・ドルゴルーカヤ公女と結婚。彼女が死ぬと、エヴドキーヤ・ストレーシュネヴァと再婚した。

 総主教としては、フィラレートはむしろ行政官としての能力を発揮した。つまり、全国の正教会を、総主教を頂点とするヒエラルキーにまとめあげ、膨大な教会領を総主教に直属させて、その管理・運営を総主教座直属の官僚(しかも俗人)に委ねた。
 その一方で、当時すでにロシア正教会では様々な問題点が教会内部でも指摘されていたが(祈祷書の誤りや聖職者養成機関の不備など)、これらには一切目をつぶった。フィラレートが先送りにしたこれらの問題の解決は、のちに、ロシア正教会の典礼の誤りや不備を他の正教会を範に正そうとするニーコンの宗教改革まで待たねばならない。
 また、聖俗両面におけるフィラレートの強権的な独裁権力は、貴族たちの反発を呼び、それがのちに正教会に対する国家の管理を強化する要因となったとも言われる(1649年の «会議法典» にいったん結実する)。

 国力の回復を待ってフィラレートが起こしたのが、対ポーランド戦争だった(1632-34)。
 1632年、ポーランド王ジグムント3世が死去。選挙王制を採っていたポーランド=リトアニアでは国王選挙が実施されるが、その混乱に乗じてスモレンスク奪回の軍を派遣したのである。
 ところが選挙は無風で、順当にジグムント3世の長男ヴワディスワフが即位。しかもまさに戦争継続の最中の1633年にフィラレートが死去。
 すでに37になっていたミハイール・フョードロヴィチも多少はまじめに政務に取り組んだらしいが、実質的な権力はやはりイヴァン・チェルカースキイ公やフョードル・シェレメーテフ、アレクセイ・リヴォーフ公といった側近が握った。

ポーランド(ポーランド=リトアニア)は、16世紀後半に王家が断絶した後は、その時々の候補者から貴族たちが王を選ぶ選挙王制を採っていた。最初の選挙で選ばれたのがフランス王子であったことが象徴しているように、ポーランドと縁もゆかりもない人間が選ばれるのが常であった(のちにはポーランド貴族から王が選ばれることもある)。
 ジグムント3世も、もとはスウェーデン王。バルト海沿岸地域を制圧せんとするスウェーデン側の思惑にポーランド側が乗って、ポーランド王に選ばれる。ところがジグムント3世は、ルター派からカトリックに改宗。ルター派のスウェーデンではジグムント3世の人気は急落し、宮廷革命で廃位された。以後ジグムント3世(とその子たち)は正統なスウェーデン王を自称して、このためポーランドとスウェーデンとはしばらく不倶戴天の敵であった。

フョードル・イヴァーノヴィチ・シェレメーテフ(1570?-1650)はセミボヤールシチナの一員。ミハイール・フョードロヴィチ即位後も大きな権力を握ったが、フィラレートの帰国で失権。その死で再び政界の中央に返り咲き、チェルカースキイ公の死で主要プリカーズの長に任命される。しかし官僚から嫌われ、実際に政治を動かしたのはアレクセイ・リヴォーフ公だったと言われる。
 アレクセイ・ミハイロヴィチ・リヴォーフ公(1580s-1653?)はリューリコヴィチ。いわゆる宮内長官(1627-47)としてミハイール・フョードロヴィチを支える。いわば «影の実力者» として宮廷を牛耳った。

 これ以降、対ポーランド戦争でロシア軍は劣勢に立たされる。特に、ロシアがスウェーデンとの共同戦線構築に失敗したのに対して(当時スウェーデンはドイツの三十年戦争に忙殺されていた)、ポーランドはクリム・ハーンと同盟し、ロシアは西部と南部の二正面作戦を余儀なくされた。
 1634年、とりあえずロシアは、領土は回復できなかったものの、ポーランド王にツァーリ位請求権を放棄させて講和を結んだ(1610年にセミボヤールシチナがヴワディスワフをツァーリに招いて以来、ヴワディスワフはツァーリを自称していた)。

 このポーランドとの戦争は、1618年の条約に定められた休戦期間が終わったことで自動的に始まった側面もあり、結果論ではあるがやはり時期尚早だった観は否めない。
 結局この後、ロシアは積極的な対外政策を打ち出せず、ただひたすら国力の回復に努めた。

 西方への領土拡張には失敗したが、ミハイール・フョードロヴィチの治世には東方と南方への勢力拡大が順調に進んだ。
 1632年にはヤクーツクが建設され、1643年からヤクーツク総督が派遣した探検隊はオホーツクに到達している。
 南方でもクリム・ハーンやノガイに対するトゥーラ防衛線、さらに南方のベールゴロド防衛線を構築。また半独立状態にあったドン・コサック(防衛線より南にいた)が独自に領土を拡張し、一時はアゾーフをも占領した(奪回しようとするクリム・ハーン国の相次ぐ攻撃に耐えかねて、ドン・コサックはアゾーフをツァーリに譲渡。しかし防衛のためのコストがかかりすぎるとして、全国会議はこれを拒否。ドン・コサックは結局アゾーフをクリム・ハーン国に返還した)。
 さらにはオスマン帝国を牽制するためイランのサファヴィー朝とも友好関係を築き(オスマン帝国とサファヴィー朝はカフカーズの覇権を巡って争っていた)、対ポーランド戦争の折には資金援助を受けている。

南方では1630年代に入って東方からヴォルガ下流域にモンゴル系のカルムィク人が移動してきて、圧迫された大ノガイが北カフカーズに移住。小ノガイと協調してクリム・ハーン国に臣従している。さらにその南方ではザカフカージエ(カフカーズ山脈南麓)のキリスト教徒(グルジア人、アルメニア人)保護を目的としてテレク要塞が建てられ、これに拠るテレク・コサックが誕生している。

ちなみに、ロシアはすでにミハイール・フョードロヴィチが即位した時点で多民族国家だった。そもそも首都モスクワはもともとウラル系民族の土地に建てられたものであり、ロシア人が «母なるヴォルガ» と呼ぶヴォルガ河の上・中流域はウラル系民族の故地である(下流域はこの時はまだロシア領になっていない)。ヴォルガ上・中流域(及びその支流域)には、チュヴァーシュ、チェレミース、ヴォテャーク、モルドヴァー、ズィリャーネ、ペルミャーク、バシュキールなどの少数民族が住んでいた。またウラル北部から西シベリアにかけてヴォグール、オステャーク、ユーグラ、サモエードがいて、この辺りまではミハイール・フョードロヴィチが即位した時点で一応ロシア領であったと言える。もっとも、この地域への進出は国家戦略に基づく領土拡大と言うよりは、個別の商人による交易品略奪行為と言うべきだろう。ヤクーツクも都市ではなく、ヤクート人収奪のための拠点であった。

 1644年、長女イリーナ・ミハイロヴナとデンマーク王子ヴァルデマールとの結婚話が持ち上がり、ヴァルデマールがモスクワへ。
 ミハイール・フョードロヴィチが、娘婿に外国王族を選んだのは、あるいはボリース・ゴドゥノーフの前例にならったのかもしれない。ミハイール・フョードロヴィチにそのような意識がなかったとしても、両者はともに同じ考えに基づいて娘婿に外国王族を選んだのだろう。それはすなわち、新たな王朝の創始者として、王朝の正統性を外国王族との結婚で補完すること、万が一に備えて跡継ぎ要員を確保しておくこと、の2点である。
 ボリース・ゴドゥノーフもミハイール・フョードロヴィチも、ツァーリとなるまではその他大勢と同じロシア貴族でしかなかった。全国会議で選ばれたというのは、少なくとも当時は、ツァーリとしての正統性としては脆弱と考えられただろうし、少なくとも君主であれば正統性には敏感であったはずだから、正統性を強化する機会は逃すはずがない。その場合、たとえ外国であれすでに王家としての正統性を確立させている一族と結びつくことは、ゴドゥノーフ家やロマーノフ家にとって特別な意味を持つことになる。
 また、ボリース・ゴドゥノーフにはまだ幼い息子がひとりしかいなかったが、次男と三男を1639年に相次いで亡くしていたミハイール・フョードロヴィチにも、まだ幼い息子がひとりしか残されていなかった。どちらの場合も、王朝の維持はまだ確実になっていなかった。跡継ぎが夭折する可能性もあれば、跡継ぎにさらなる跡継ぎが生まれない場合もある。その場合は娘を通じて王朝の維持を図ることになるが、その場合娘婿はロシア貴族であるよりも外国の王族である方が、上記の正統性という観点からも、またロシア国内の利害関係から無縁であるという点からも、望ましい。
 しかし、もし万一の場合に備えるのであれば、当然娘婿にはロシアの臣民となり、正教に改宗してもらわなければならない。ヴァルデマールの場合、貴賎結婚から生まれた子であるからもとよりデンマーク王位継承権はなく、前者に何の支障もない。しかし後者、すなわち正教への改宗には、ヴァルデマールが強硬に反対した。この結果、結婚話は破談。

 1645年、49という若さで死去。死因は浮腫とされるが、前年にイリーナ・ミハイロヴナの結婚話が破談になったことが影響しているとも言われる。
 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られた。

アルハンゲリスキイ大聖堂 Архангельский собор は、クレムリン内にある3大聖堂(?)のひとつ。クレムリン内最古の大聖堂で、古来歴代モスクワ大公の墓所であった(イヴァン・カリター以降)。ロマーノフ家の人間も、ミハイール・フョードロヴィチ以降ほとんどがここに葬られている(例外は若干の女性)。サンクト・ペテルブルグが首都になると、墓所もペトロパーヴロフスキイ大聖堂に移った。アルハンゲリスキイ大聖堂に最後に埋葬されたのはピョートル2世(1730)。ただしソ連時代にヴォズネセンスキイ修道院が取り壊されると、その墓地に埋葬されていた女性たちの遺体がアルハンゲリスキイ大聖堂に移されている。

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最終更新日 07 03 2013

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